2日目午後「世界観を広げよう」

午前中の『木の花ファミリー総合プレゼンテーション』に続いて、午後の講座は『世界観を広げよう』。
「わからないことを提供していきます」という初日の挨拶の通り、固定概念の枠を超える情報の洪水に「頭が噴火しそう」と受講生のとしみちゃん。

休憩時間に倒れこむけーごくん
休憩時間に倒れこむけーごくん

それでもけーごくん曰く、「今まで何度かここで世界観のプレゼンを聞いてきたけど、今日が一番深く理解できた」。
それぞれに「何か」を探し求めてやってきた受講生たちの間から次々と質問が飛び出し、講座はとても活気のある場になっています。「脱線の中に真実あり」。そう、質問によって新たなものが引き出され、どんどん脱線して話の幅がぐんと広がることで、思いがけず宇宙の真理に出会ったりするのです。

子どもの時に星空のあまりの美しさに魅せられ、ずっと宇宙のことをもっと知りたいと思ってきためぐちゃん
子どもの時に星空のあまりの美しさに魅せられ、宇宙物理学の道へ進みながら自分が本当に知りたいことは何なのかを探し求めてきためぐちゃん
みんな熱心にメモをとっています
熱心にメモをとり続けます

講座の冒頭、いさどんはこう語りました。
「今、地球は狭くなりました。19世紀までは地球を1周するのは大変なことでしたが、今は無給油で地球を1周する乗り物もできました。それだけ世界を認識できるようになったということですが、逆に、人間の個々の価値観は狭くなりました。そこで広い意識を持ち、世界観を広げることによって、固くなったものをやわらかくしていきます。」

やわらかいいさどん
やわらかいいさどん

それでは、頭の中を白紙にしてお付き合いください。

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いさどんは語ります。
「時代は、生きものです。その中で私たちは、『時の旅人』です。これはどんなに拒否しても、乗車拒否することはできません。死ぬとできるだろうかというと、死んでもできません。我々が存在している限り、この『時』という乗り物に乗っているということです。
私たちは肉体という器を持ち、そこに縁ある魂が乗って、人生という旅をしています。そこで同時に、時という乗り物にも乗っています。一定の時間を過ごし、寿命が来ればみんな死にますね。私たちが死んだ後も、時代は動き続けています。ですからもしも生まれ変わるとしたら、それだけ時代が進んだ先に生まれるのです。そのように人間は、生まれては死ぬことをくり返しています。これを輪廻と言います。人間が生きている時も、死んでいる時も、時は同じように進んでいます。」

「私たちが生きている時、肉体は変化します。それは手に触れ、つかむこともできます。しかし魂は、つかむことはできません。魂は死ぬこともありません。たとえば、(受講生の)よしこちゃんがよしこちゃんであり続けるのは、『よしこ』というプログラムになっているからです。そのプログラムが変わると、もしかすると『わるこ』ちゃんになるかもしれません(笑)。前の人生では別のプログラムを持っていて、その結果として、今世のよしこちゃんがあるのです。そしてこの先、さらによしこちゃんになるのか、或いはわるこちゃんになるのかは、今の生き方にかかっています。」

はたしてさらによしこになるのか、わるこになるのか?
はたしてさらによしこになるのか、わるこになるのか!?

「現象世界には、永遠はありません。しかし、現象の奥にあるものというのは物質ではありませんから、そのプログラムが成立している限り、物語として続いていきます。
今は西暦2017年ですが、僕はよく、3000年までのプログラムが始まったと言います。『西暦3000年なんて私は生きていないから関係ないわ』と思うでしょう?でも実は、そのスケールのサイクルでものごとを捉えている人には、関係があるのです。よく、人々がわかりやすいように『皆さんの子孫のために』と言いますが、それは実は自分自身のためなんですよ。今あなたがその魂で成立しているということは、過去にその魂で生まれてくるような生き方をした結果であり、ひとつの物語としてずっとつながっているのです。」

今現在も、私たちは地球に乗って秒速30kmというスピードで宇宙空間を移動し続けています。自転しながら、公転しながら、歳差運動しながら、微振動しながら移動し続ける地球の動きをいさどんは地球儀ボールを使って解説。こんなに複雑な動きをしながら地球は宇宙を移動し続けており、その動きによって地球上に1日や四季がもたらされ、その中で私たちは生きているのです。

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ここからさらに、話はどんどん深まっていきます。
星の動きと人類の歴史や個人の人生がいかに連動しているかということ、時代と共に北極星は移り変わっており、今絶対と思っているものも変化していくということ、私たちはそもそも「間違い」から生まれているということ、欠けているからこそ存在しているのであり、存在するためには欠けていなければいけないということ、欠けていることを認識するために生きていて、それを認識できるだけの特別な能力を人間は与えられているということ、紙の発明以来人間は平面でものごとを捉えるようになり、良いか悪いか、損か得かという二元思考が生まれたこと、人間の思考が鈍くなったのは余分なことを考えるようになったからであり、その余分を取り除けば自分の中から宇宙の真理が無限に湧き出してくるようになること ──── 等々。
とてもここには書ききれません(*_*)以下、スライドをご紹介しますので、どうぞご覧ください。さらに深く学びたい方は、ぜひ来年の真学校へお越しください♪

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受講生との活発なやり取りで話はどんどんふくらみ、講座時間内に終わり切らなかったため、続きは夜の大人ミーティングに突入。

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大人ミーティングで講座の続きをスタート

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・・・大人ミーティングでも終わりませんでした。

今後は情報量を調整します、と反省を語るいさどんとみかちゃん
今後は情報量を調整します、と反省を語るいさどんとみかちゃん

一コマの講座でこれだけの情報量を消化するのは、そもそもムリ。が、しかし、どれも重要な内容であることには変わりありません。
そこで!スケジュールを変更し、明後日の午後に続きをやることになりました。ここまでは、過去の人類の歩みや現代社会の実態などを見てきましたが、ここからは、その現代を私たちはどう生きていくのか、という内容に入ります。

今、社会の現状を分析して何が問題なのかを語る人は多くいますが、ではそこから実際にどう生きていくのかという代替案に出会うことはなかなかありません。けれども、大切なのはそこからなのです。

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それでは、どうぞ明後日の講座をお楽しみに!

物語は、つづく。

 

 


2日目午前「木の花ファミリープレゼンテーション」

1ヶ月間の真学校、最初の講座は、木の花ファミリーの暮らしや活動について紹介する『木の花ファミリープレゼンテーション』です。

プレゼンをするいさどん
プレゼンをするいさどん

 
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これは、真学校で最初のプレゼンテーションです。木の花ファミリーの総合プレゼンテーションですが、一番最初のページはこんな言葉から始まります。

「人間の求める幸せの結果

僕はよく、このことについて語ります。それは、なぜ木の花ファミリーができたのかということにもつながるからです。
木の花ファミリーは、個人的な目的によって創られた場所ではありません。厳密に言えば、それは目的を持って結成されたとも言えるかもしれませんが、木の花ファミリーが存在する一番の目的は、今の社会がどのようになっていて、それにどのように貢献していくかということです。

人は生きていく時に、それぞれ自らの精神性にふさわしい目標を持っています。毎日晩酌のために一日を過ごしている人もいれば、ギャンブルで当たることを目標としている人もいます。日本には多くの依存症がありますが、ギャンブル依存の中には宝くじ依存症の人々がいます。宝くじを当てることばかりを夢見て、それを目標に毎日を生き、その結果破産する人々がいるのです。
おもしろい話があります。東京オリンピックは、東京都と国がお金を出し合って開催します。東京都の負担金の約半分は、宝くじによる収益です。国も、負担金の約半分を宝くじでまかないます。そしてもうひとつ、オリンピック実行委員会の資金は、すべて宝くじでまかなわれます。
東京都の負担金の半分が宝くじなら、残り半分はどこから来るか知っていますか?そう、税金です。ではその税金はどこから来ると思いますか?都民だと思うでしょう?実は残り半分は、自治体が自治体を運営するための宝くじでまかなうのだと言います。テレビをよく観ていると、宝くじのCMがたくさんあるでしょう。もともと国や自治体の予算も宝くじでまかなわれているのです。それが東京オリンピックの費用に充てられたというだけのことです。

宝くじを買って得する人は、どのくらいいると思いますか?宝くじの売り上げの約8割は、売る側の収益になります。そして残りの2割を買った人に還元します。ですから、打率は2割以下ですね。パチンコと同じで、トータルで得をすることは決してありません。保険もそうです。外資系の保険会社は、人ではなくインターネットやテレビを使って勧誘をします。そうすると人件費がかからないので利益が大きくなり、売り上げの8割以上が収益になる会社もあります。そして、保険に入れば将来が安心だとうたいながら、人々の不安を煽っているのです。ギャンブルと同じように、決して健全に還元されない形でこの世界が回っているのです。

人間が幸せを求めてきた結果、社会に何がもたらされたでしょうか。

人々の中に不安があってそれを解消しようとしたり、あるいは何か目標を持ってそれを成し遂げる時に、その行動は世の中にたくさんの矛盾を生み出しています。そうやって今の世の中は動いています。それは本当のことです。それをわかることです。
もしもそのような矛盾がなくなり、世の中が健全になるとどうなるのかというと、とてもシンプルな世界になります。今の世の中はバブルのように、8割、9割が不要なことで成り立っています。その不要なものをそぎ落としていくと、どのような生活ができるでしょうか。

3月21日に、私たちはロータスランドをオープンします。そこではとてもおいしくて健康な食事が、とても安い金額で食べられます。
食材の多くは自家製のものを使い、建物の建築も7割ほどは自分たちでやっています。一般企業が人件費を払ってお店を運営するとしたら、こんなへんぴな所であんなお店は作りません。もっと利益の上げられる、条件の良い場所を選ぶでしょう。しかしここでは、それができる。なぜなら、木の花ファミリーという暮らしがあるからです。
そこで得る収益は、とても利益率が高い。ではその利益を何に使うのかというと、みんなでハワイ旅行に行くわけではありません。どうするかというと、次の木の花ファミリーの活動を充実させるために使います。そうやって普通の人々ができないことをやり、こんなふうに暮らせるんですよ、ということを社会に還元していくのです。これは社会運動であり、大いなる実験です。それはとても充実した、安心で、楽しい暮らしです。こういった暮らしを世の中の人々がするようになったら、世界は本当に平和で、少ないエネルギーで豊かに暮らせるようになるでしょう。

さて、20世紀型社会がわたし達にもたらしたものは何でしょうか。

 

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「自由」とは何か ~ ウェルカムコンサートより

初日の夜は、ウェルカムコンサート!
『Welcome to 木の花ファミリー』に始まり、木の花楽団のオリジナル楽曲の数々で受講生のみんなをお迎えします。

子どもたちによる『みつばち小学校のうた』

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最後は『みんなで踊ろう』!
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「今日は、かつて自分たちが星であったことを思い出して、星という視点からこの世界を観ることの始まりの日です」とメインボーカルのみかちゃん。

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そして木の花合唱団による『この星の上で』の前に、いさどんがこんな話をしました。

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今、ちょうどみかちゃんが僕が話したいことの入り口について話してくれました。それは「自由」ということについてです。

今の時代の人々は、「自由」というと、何でも自分の思う通りにやれること、好きなようにできることだと思っています。それは人それぞれに自分自身を好きなように表現するということですから、その人の心の在り方によってできる世界が変わってきます。わがままな人はわがままな世界を創り、自分を閉じ込めて苦しめる人は苦しい世界を創るのです。

そこで、もうひとつ違う「自由」があります。それは、この世界の自由です。

カタカムナには、「クニツクリ」という言葉があります。クニツクリとは、地球創りのことです。日本、オランダ、中国、アメリカ・・・地球上にはいろんな国がありますが、「クニ」という言葉には、「自由が定着した所」という意味があります。
現代の人々の思考は、まず自分があり、自分の側から見てこの世界が思うようになるかならないか、という捉え方になっています。そしてこの世界のルールが自分に都合の良いものであることを望んでいます。しかし真実は、まずこの世界があり、その中に自分がいるのです。つまり、先にこの世界のルールがあって、そのルールのもとに自分が生きているということです。そこで自分の願望とこの世界のルールが合わないと、人は「自由じゃない」と感じるようになるのです。

クニは、その中にいる人間一人ひとりに何を求めているのでしょうか。そして、人間一人ひとりはどのような役割を果たしてクニを維持していくべきなのでしょうか。その両方が連携した時に初めて、この世界は健全になります。
現代の人々にとっての自由とは、ものごとを自分の思い通りにするというものです。しかし、そのような人々がたくさんいたら、はたして世界に秩序は成り立つでしょうか。例えば、それは自分の体でも同じことです。自分一人分の健康は、体の健全な循環の中にあります。ところが、心が「ああしたい」「こうしたい」という余分な思いを持っていると、体のバランスが崩れ、健康ではなくなるのです。
世の中もそうですね。社会を構成する一人ひとりが「ああしたい」「こうしたい」とバラバラであったら、全体が無秩序となり、その中で争いが起きるようになります。それは、体で言えば病気の状態です。

この世界は、個々の存在の自己主張によって保たれているのではなく、個々のものが個性を発揮し、それが連携して大きなネットワークとなることで成り立つようになっています。その構造を、自分に囚われず、自らの内からも外からも観える状態 ──── それが本当の「自由」なのです。

そのような美しいネットワークによって生まれる形、組織、星を、「クニ」と言います。それは、本当の自由の世界です。そこへ向かわなければ、地球の未来はありません。
今、このことを皆さんが学ぼうとしているということは、皆さん一人ひとりの健全で楽しい、豊かな毎日につながるということもありますが、一人ひとりが健全で楽しく豊かな毎日を送り、そのネットワークが広がっていったら、日本も、オランダも、中国も、アメリカも、世界中の国が豊かになって、地球が健全になることでしょう。個人の幸せは、世界中の健全と豊かさにつながらなければならないのです。

これから、そういった時代が始まります。僕がこの1ヶ月間を通して皆さんにお話しする話は、その時代の現れです。そして皆さんは、縁があって出会った、その時代の扉を開ける人たちです。それはとても充実した大切な人生を生きるということです。そうすると、皆さん一人ひとりの毎日が豊かで、楽しくなります。そうでなければなりません。世の中の扉を開けるとともに、皆さん自身の扉も開くのです。

これから、『この星の上で』という歌を歌います。今の人類の姿を見ていると、地球のがん細胞のようですね。人間以外の生命の視点から見れば、迷惑な存在であるとも言えます。しかし本来人間は、地球生態系ネットワークの指揮者でなければなりません。自らが模範となり、この地球というクニを、自由で、豊かで、みんなが幸せな世界にするのが人間の役割です。
私たちは何のために生まれてきたのか ──── そのことを問いかけ、歌った歌です。お聴きください、『この星の上で』。

 

この星の上で

宇宙の暗やみに浮かんでる
青い小さなこの星よ
大きな光の手に包まれて
今生まれ変わろうとしている

限りなきいのち与えられ
この星の上で生きている
はじめから全て与えられ
この星の上生きている

起こりゆくことの全ては
善きことのためにあると
悲しきことも苦しきことも
全てこの身に受けて

何のためにこの星に
降り立ったのかを
知らないままで暗やみの中
迷いながら生きている

何のためにこの星に
降り立ったのかを
思い出したらもう迷わない
いのちの道を歩みはじめる

やがて全ての人々が
互いに心をゆるしあい
やがて全ての人々が
光り輝き出すだろう

限りなきいのち与えられ
この星の上で生きている
はじめから全て与えられ
この星の上生きている

この星の上生きている

 

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1日目「皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントします」

始まりました!1ヶ月間の真学校2017!

さて、これからどんな1ヶ月間が紡がれていくことでしょうか。
講座の内容など、当サイトにて随時発信してまいります。皆さま、どうぞ遠隔参加ください。まずは開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します!

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皆さん一人ひとりに
新しい自分自身をプレゼントします

— 1ヶ月間の真学校2017開講の挨拶 ―

最近僕は、自分はなぜこのような人生を生きているのだろう、と考えることがあります。それは自分の意志ではないと思っています。過去の歴史からつなげて今の時代を観てみると、世界は今、変革の時を迎えているということがわかるからです。

皆さんは、一人ひとりそれぞれの人格を持ち、それにふさわしい人生を生きています。そのふさわしい人生を、多くの人は、自分の意志で選んで生きてきたと思っています。
しかし、今の時代の社会を、自分で選んでつくることはできません。世の中が今こうなっているから自分はこういう人生を生きているのだ、というように人は捉えます。人によっては、自分の思うような人生が生きられなければ、自らを犠牲者のように捉える人もいます。時代を思うようにはできないということも、自分の人生は自分でつくってきたのだと思うことも、どちらも実は違うのではないか、と思うのです。
今、あえて「違うのではないか」と言ったのは、そのことを明快にするためにこの1ヶ月間の真学校があると考えるからです。

時代は、物語を刻んでいます。それを小さく区切って自らの目の前のことだけを見て、日常の中に思考が囚われていては、時代が物語を紡いでいることを理解することはできません。多くの人は時代に翻弄され、実際に水の中で溺れてはいなくとも、心は時代の波にのみ込まれています。自分自身の感情にすら翻弄されているのです。
ずっと昔、人間がもっと自然に近かった時代には、そのようなことはありませんでした。それは、自然から与えられた環境のままに人間が生きていたからです。人間はとても高い能力を持っていました。やがて火を使うようになり、道具を使うようになり、どんどん賢くなって、生きることに工夫をするようになりました。
そうすると、人間の中に「あれが欲しい」「これがしたい」という思いが湧くようになりました。そしてその思いがだんだん膨らみ、育っていきました。何のためにそれがしたいのかというと、自らの満足のためにしたいのです。それが自我の目覚めです。

自我とは、本能と同じものです。本能のままに自我はあります。しかし人間が他の動物や植物と違うのは、その自我がある意味欲望であり、感情であり、それぞれの精神性にふさわしく膨らませていくものであるということです。それが行きついたところが、現代の社会です。
1ヶ月間の真学校では、このことについてひも解いていきます。現代は人間の自我が極めて膨らみ、本来私たちは自然の生命でありながら、非自然の中に生きるようになりました。生命は自然の仕組みそのものですが、人間は自然とはかけ離れた欲望を持ち、自然とはかけ離れた環境を創り出し、生きるようになったのです。
その結果、「あれが欲しい」「これがしたい」という欲望もどんどん膨らみ、本来の自然の生命観からしたら不要な思いをたくさん持つようになりました。皆さんも、持っているでしょう?その不要な思いを持つことによって何が起きるのかというと、それは自然の中では矛盾ですから、本来自然の中にあるべき秩序を乱し、この世界に歪みをもたらし、人々がつくる社会にも不調和をもたらします。自然界では、動物の関係も植物の関係も自然の循環の中にあり、とてもスムーズです。ところが人間は、人間同士の間ですら関係が難しくなりました。さらに、自らの思いが自然から離れることで、自らの体にまで矛盾を発生させるようになりました。それを病気といいます。

現代の人々はそのような分析はしません。病気が蔓延していることや、世界にまだ戦争があることなど、自然にはありえない現象が人間の世界にたくさん存在していることを、当たり前に思っているのです。そしてそれが在ることを前提に、対処しています。ですから、なぜそれが起きているのかを根本的に考えるということをしないのです。
根本的に考えるとは、もっと大きな枠でその現象を捉えるということです。しかし人々は、まずそれがあることを前提にして見ていますから、その目線では決してその根本的原因を理解することができず、問題の解決を図ることはできません。

今回1ヶ月間の真学校に参加された皆さんは、参加の理由はそれぞれにあることでしょう。しかし、共通して言えることがあります。
皆さんは、この時代にこういったものごとの捉え方を得る機会に出会いました。この時代だからこそ、この視点が必要なのです。それを得ると、皆さんの人生は確実に変わります。
どう変わるのかというと、生きるということに対する解釈が変わっていきます。1ヶ月間が経てば、確実に変わります。ただし、そのことに対する一人ひとりのニーズの内容はそれぞれでしょう。今の暮らしを安定した人生にすることを求めている人もいれば、新たな人生を歩みたいという人もいます。ニーズはそれぞれですが、確かなことは、今この時を生きる人々にとって、こういった学びが必要とされているということです。

今、世界中でたくさんの矛盾がピークを迎えています。その矛盾を理解し、新たな時代へと移行していく時に、その先端を行く者はごく少数から始まります。やがてそれは全体へと伝播していきますが、今はまだ、世の中全体は混乱の中にあり、多くの人々は次に進むべき新たな世界を見出せずにいます。そして矛盾が発生し続けています。皆さんは、このことを理解し、これからの時代のために、世の中のために生きていってくれる人たちだと思うのです。

そこで、では自分は世の中のために何ができるだろうと考えます。簡単なことです。自分一人を変えれば、自分一人分世の中が変わります。あなたがご機嫌で、幸せで、理に適った生き方をすれば、あなた一人分世の中を良くするのです。
今、時代は大きな切り替えの時に来ています。その変化が連鎖していく種になるということは、あなた自身が変化の波の先端に立ち、これから後に続いてくるであろう人々の見本にもなるということです。

実は、皆さんへの講座で使うプレゼンテーションを今用意しているのですが、その半分ほどは、もしかするとちんぷんかんぷんかもしれません。その、よくわからないものを皆さんにプレゼントしようとしています。「これを聞いてもきっと理解できないだろうな」と思いながら、プレゼンテーションを準備しています。
それはなぜかというと、もしも皆さんがわかることを得るとしたら、皆さんはきっと納得することでしょう。しかしそれでは、あなたの心は満足するかもしれませんが、あなたが変わることにはならないのです。
多くの人は、自分が納得できるものだけを得ようとします。しかし納得できるということは、それは自分の理解の範囲内のものだけを得るということですから、そこに進化はありません。時代は常に進化し続けているのですから、今の考えのままでい続ければいつかは必ずそこに矛盾が発生し、行き詰まるようになっています。ですから、皆さんのために、「きっとこれは理解できないだろうな」と思いながらプレゼンテーションを用意しています。

新たなものに出会うということは、「そういう捉え方があるのか!」と、これまでの自分の枠を突破することになります。ですから、皆さん一人ひとりにできる限り寄り添いながら、理解できるようにお話ししていきますが、わからなくてもいいんですよ。なぜなら、わからない話に出会っている、というだけで、すでにあなたは、今までのあなたの枠を外し、新しい世界にいるからです。
そうでしょう?自分がわからないところへ積極的に行こうとするなんて、普通はしませんね。そこにいるというだけで、新たなものを得ようとする姿勢があるということなのです。それは、進化しようとする姿勢の証です。

木の花ファミリーには、毎晩夕食後に「子どもミーティング」というものがあります。通常は、その日にあった出来事などを子どもたちが話し、それに対して大人たちがコメントをするなどしてやり取りをする場です。
そこに時々、いさどんが登場することがあります。いさどんはできるだけ子どもたちにもわかるように話しますが、それは世界観が広く、小学生以下の子どもたちには難しい話です。中学生以上でも難しいかもしれません。できるだけ理解できるように話すものの、本来そういった世界観を、子どもたちはまだ持ってはいないのです。
ではなぜそんな話をするのかというと、わからなくてもいいのです。つまり、子ども達はそこで言葉を聞いているのではありません。いさどんという人が、何か大切な話をしている。それを大人たちが熱心に聞いている。言葉も難しくてわからないけれど、何か大切なことを言う人がいて、それを大切に受け取っている人たちがいるという、その空気を感じているのです。
そうすると、意味がわからなくても、子どもたちは「自分のわからないことで大切なことがあるんだ」ということをしっかりと受け止めていきます。ですから日常の中でちょっとそういった話に出会うと、子どもたちはパッとそれを受け取り、いつの間にか大人よりも立派なことを言うようになるのです。大人は頭で学習しますが、子どもたちの言葉は内からにじみ出てきたものですから、本物です。

これから1ヶ月間、きっとわからないだろうというような話を、皆さんに伝わるように、精一杯やっていきます。皆さんも、わからなくても付き合ってみてください。そうすると、1週間経ち、2週間経ち、3週間経ち、1ヶ月が経つと、皆さんはきっと変わっています。
これから、とても充実した1ヶ月間を皆さんにプレゼントします。皆さんも、自分の頭の中で先に何かを予測するのではなく、すべてを白紙にしてお付き合いください。そうすれば、皆さん一人ひとりに、新しい自分自身をプレゼントすることができるだろうと思っています。

1ヶ月間、よろしくお願いします!

 

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自分を変え、世界を変える1ヶ月間の始まりです

 


「マツリ」の中の真学校

2017年1ヶ月間の真学校の開講まで、いよいよあと2日!

すでに受講生のみなさんをお迎えする準備は整い、あとは到着を待つばかり。メイン講師のいさどんとみかちゃんは、講座資料の最終確認を行っています。
実は木の花ファミリーでは、真学校終了3日後の3月21日に新店舗「ロータスランド」をオープンするため、ただ今真学校と並行してロータスランドの開業準備も進んでおり、畑や田んぼでも新たな取り組みが始まるなど、あちこちに同時進行で様々なプロジェクトが進んでいます。そんな中、いさどんが早朝に目を覚まし、こんなことを語り始めました。

*上の写真は昨年の1ヶ月間の真学校のイベント時のものです。


いさどん:
ロータスランドのオープンに向けて、今、みんなで一丸となってひとつのことをやっている。一丸となってひとつのことを越えていくというのは、たくさんの心がそこに共鳴しあって、人に希望を与えることだ。
その中で、誰か一人でも自我にまみれていては、そのような場はできない。自我を忘れて、みんなが渦になる。カタカムナで言えば、「マワリテメクル」ということ。それは地球の動きだ。地球は自転し、公転し、歳差運動をし、微振動をしながら進んでいる。これは、古くから日本人の中にある、「マツリ」の精神だ。

今、我々は生活の中でマツリを表現している。そこでただ物理的なことを目指していると、何か特定の目的があって、それを達成するためにみんなでひとつになろうという世界になる。そこでも、自我があっては調和的な世界を創ることはできない。
今日、1ヶ月間の真学校の講座で使うカタカムナのプレゼンテーションをチェックしながら、改めてカタカムナの精神について振り返っていた。カタカムナの精神とは、マツリの精神だ。マツリの精神とは、命の仕組みの精神であり、宇宙の天体の成り立ちを言う。
そのことについて思考を巡らせていたら、北朝鮮の金正男氏が暗殺されたことが思い浮かんだ。そしてトランプ政権のフリン補佐官が更迭されたことが思い浮かんだ。世界中で争いやいがみ合いが起きている。人間のご都合主義の世界が、今の世の中に蔓延している。

ここで表現しようとしているのは、それとは別の世界だ。これをカタカムナ精神と言っていいものかどうかはわからないが、ここの生活にはカタカムナが浸透している。つまり、カタカムナを学ぶのではなく、カタカムナを語り、カタカムナを生きているということだ。魂のこもった生き方とは、そのようなことを言うのだろう。それをやっていかなければならない。いくら知識を学んで語ったところで、それが生活の中で現象化しなければ、生きることに反映されないのだから。
これからそれをやっていこうということではなく、我々は今、現実にそれをやっている。そしてその現象化したものを、1ヶ月間の真学校で伝えていく。それはとても難しいことだ。カタカムナの講座は6時間あるが、たったの6時間でどこまで伝えられるだろうか。ほとんどは理解できないだろう。なぜなら、まず価値観が違うからだ。価値観は違うが、縁があって出会った人々にそれを伝えることは、大変ではあるが希望のあることでもある。

例えばカタカムナ理論というように特定の用語を作って固定してしまうと、数ある理論の中のひとつのように思えるが、これは宇宙に遍満している法則そのものだ。
宇宙は、動いている。我々は毎日を認識し、時が過ぎていくが、これは巨大なエネルギーがうねっている「マワリテメクル」の世界だ。その中の一環としてこの仕組みがあるということを理解すると、すべてのところにその法則が遍満していることが観えてくる。それを意識しながら生きていくことが大切だ。
この理論が体得できるようになると、自我は消え、この世界を構成するものとして、大いなる生命としての役割を果たしながら、宇宙の実体のままに生きていくことになる。現代の人々は大いなるものから離れ、自我にまみれていがみ合っているが、そういったことがすべて帳消しになってしまう世界が、いがみ合いの奥にいつでもちゃんと控えているのだ。
それを語っていくことは、物理的な現状の地球を見ていると不可能なように思えるかもしれないが、ここではその存在を知って、語り出した。いずれ必ず、人間たちがそれを理解する時が来る。既に扉は開き、その動きは始まっているのだと思うと、やはりテンションは上がる。それこそ病魔に侵されて死にかかった者が生きることの本当の意味を知って「死んでなんかいられない」となるように、僕も、夜中だけど寝てなんかいられないよというテンションになった。まあ、語ったらまた寝るけどね(笑)。しかし何か、この今のときめきを語っておかなければいけない、と思った。

今日、真学校のプログラムとして上演する木の花劇団の劇の読み合わせをやった。この劇は、ガンになって死の瀬戸際まで行ったきょうこちゃんの体験を元にして、彼女自身が脚本を書いている。そこに出てくる自分のセリフを読み上げながら、あれはセリフではなく、日常会話の中から出てきた言葉だから、本番でもアドリブを交えて、そのまま生でやれたらいいと思った。最後にみんなが泣くシーンがあるが、あの涙はいいね。その場で本物の涙を流しながら、やりたいね。

(ここでひとみちゃんが、ロータスランドのテラスの上に描く壁画の下絵を持って部屋に入ってきました。)

いさどん:
何をしていたの?

ひとみ:
壁画の下絵を描いてた。

いさどん:
テラスの上の壁画を描くのに、足場に手すりをつけないのはどうしてだか、わかる?

テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん
テラスの上の壁に壁画を描くひとみちゃん

ひとみ:
落ちるように?(笑)

いさどん:
あなたは、足場が壁に近すぎて、全体を見ながら描くことができないと言う。それはわかる。だから池の方に向かってデッキの端まで足場を作り、壁から離れて見られるようにするが、それは面倒なことであり、できればなくていけたらいい仕事だ。
人は自分の頭の中に構想を持っていて、それを物理的に現す時に、大きな絵なら離れて全体を見ようとする。その遠くから全体を見る目を、例えば他の誰かが補うとか、足場の下に降りて離れて見るということもできる。あなたが「近いから見にくい」と言うと、みんなはすぐにそれを解決してあげようとする。それは悪いことではないが、それよりも、そういったことを含めて、あなたの神がかり的な能力を発揮してやってもらいたい。

ひとみ:
大丈夫だよ。降りたり上がったりしながら描いてるから。

いさどん:
降りたり上がったりしながら、あなたのシャーマン的精神を呼び覚ましてもらいたい。あなたには、きっとできる。

(ここで、ひとみちゃんが持って帰ってきた絵を広げて見ました。いさどんの助言を受けて、絵には新たに太陽と月が描き加えられていました。)

ああ、いいね!月をもう少し上に上げて、月と太陽が斜め45度の角度に並ぶようにしよう。太陽はもう少し富士山の右肩に隠れて、半分だけ顔を出して、これからもう半分が出るよ、という感じになるといい。鶴と亀はどこに描くの?亀が空を飛んでいてもいいね。ルールは破ればいい。写実画を求めているわけではないのだから。(しばらくアドバイスをした後、しみじみと絵を眺めながら)いいね。テーマは、やはり花だよ。花がなければいけない。
あなたが一人でこれを描いているという気がしない。これは協同作業だ。一緒にやろう。時間のことは気にせずにやっていけばいい。そうすれば、必要なことは必要なように、事が成っていくから。これは仏像をつくるのと同じで、そこにあるものが描かれていくのだから、自分でやってやろうだなんて思わないことだよ。「これはこうだな」「これは少し違うな」と、あるものを探りあてていく、手探りのような作業だ。完成形があるわけではなく、そこに関わっていくと自然と成っていく。
あなたがあそこで絵を描いている姿は、絵になるよ。そこを通りがかる人は「何をしているんだろう?」と思い、進捗状況を気にするようになるだろう。こんなふうに、お金持ちがお金を払って誰かに絵を描いてもらうのではなく、生活の中ににじみ出る余裕から、そこに表現されていく。それは、生活そのものがマツリだからこそできることだ。

「祭」という字は「サイ」とも読む。「何々祭」というと、それは日常の生活から離れた儀式の場で使う用語になる。そこには天と地があり、地が天を崇めて祭典をするという「サ」=差のある状態だ。「サイ」は「マツリ」とは違い、まだマツリに至らない段階の儀式に用いられる。
それが「マツリ」になると、「マ」は宇宙空間であり、生命が躍動する特定の場、宇宙の法則が表現される場所のことであり、「ツ」は集い、「リ」は離れるということ。自我から離れた者たちが集い、宇宙の法則のままに生命が躍動する。それがマツリだ。そのような無我の境地で、美しく、日々を舞い踊るように生きたいものだ。

 


 

そんなマツリの日々の中で、真学校は開催されます。どうぞ一緒に、自我の囚われから放たれて美しく舞い踊るような1ヶ月間を過ごしましょう。^^

 


受講生といさどんとの対話・トオマスのヒトへの道編

「1ヶ月間の真学校」の中でいさどんは、担当するプログラムが始まる前には必ず「今日も僕はいさどんをやっています♪」と言ってからプログラムを始めていました。さて、真学校が終了した翌日13日の朝、受講生のトオマスはこれからコミュニティを立ち上げるインドネシアのバリへ出発する前に、いさどんと話す時間を持ちました。

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トオマス:
今日も僕はトオマスをやっています♪

いさどん:
僕はあなたがこれから歩んでいく道を見守っていきます。今までのあなたは現実的でなかったところもありましたが、それが今回の1ヶ月間で少し現実的になってきたと思っています。ただ、現実的イコール、事が成るばかりではありません。現実的ということは、いろいろな修正が必要なことが観えてきたということでもあるのです。人間は自らの意志で何かを成し遂げようと目標を立てるとき、強引にそれを成し遂げる能力も持ち合わせています。しかし、そのような可能性を人間たちが発揮してきたがために、今の世界の現状があるのです。それは人間社会の大きな行き詰まりにもなっていますし、自然からの反乱も招いています。それは、人間が自らの性質をこの世界に表現することの意味を履き違えているからです。

ですから、この世界を支配し、自らの願望を叶えようとするような姿勢ではなく、身近な人々に対して寄り添い、同時に自然や地球環境に寄り添うこと、それから大きな世界観を持って宇宙の流れや法則に寄り添うことが大切なのです。そのように寄り添っていく延長に自らの目的があるならば、人類がもたらし巨大になってしまった矛盾を解消できるのです。

あなたには、そういったこの世界の矛盾を解消するための閃きがあります。それは世の中や人々に有効なものをもたらすはずなのですが、それすらも独りよがりであったり、他者や自然に寄り添っていかなければ、結果同じような矛盾をこの世界にもたらすことになってしまうのです。そこでまず、自らの器を大きくすることが大切です。そして、他者に寄り添い、自分以外のすべての存在を常に意識することが大切です。それができれば、あなたの最終到達地点である尊い理想は叶うことでしょう。それは、あなたがブッダの人生を生きるということです。

日本では、「人が寄る家は栄える」と言います。その栄えることでも、低いレベルと高いレベルの栄えることがあるのです。それは自らの意識にふさわしくあるということです。今までの時代は、低い意識レベルで人間以外の存在に害をもたらし、人間の欲の心を引き寄せることによって栄えることがありました。しかしこれからは、ブッダの精神に人々が寄ってくる時代が訪れています。ブッダの精神を持つ人々が群れてコミュニティとなること――それが人々が暮らす理想の姿であり、木の花ファミリーで言う「菩薩の里」です。そこに人々が寄ってくるためには、引き寄せる核となるあなたの精神がブッダとなる必要があるのです。

あなたはまだ27歳と若いですね。僕はあなたを観ていて、自分の若い頃を思い出します。僕の若い頃より、あなたのほうがさらに目覚めています。また、僕のほうがあなたよりずっと暴走していました(笑)。そして、一番の違いは、僕はその頃自らの考えで歩んでいただけであり、誰か指針を与えてくれる人はいませんでした。もちろん当時は、天の存在などまったく意識していなかったのです。その僕にはなかったものが、今のあなたにはあります。そういった意味では、あなたにはとても良い環境があるのです。あなたが他者を意識し他者に寄り添っていけば、世の中の指針となる場所を創ることができ、あなたの人生の目的が達成されることでしょう。そこでは、あなたの目標イコール天の目標となることが大切です。

これからあなたがインドネシアでコミュニティを創っていくことは、時代的にはとても良い発想だと僕は思っています。ただ、そこではアメリカ人であるあなたとの文化的な違いがあるだろうから、今僕が伝えていることはさらに現実的にあなたに求められることでしょう。ですから、外との人間関係の調整よりも、自らの内面をどれだけ修正できるかがポイントです。

トオマス:
それを僕は今学んでいる最中です。それには180度の転換を要します。それは精神的に始まるものです。しかし同時に自らの思考や感情、人間関係の転換も要します。そして文化は、自分が何者であるのかを意味します。というのも、文化は魂と地球をつなげるからです。文化が僕たちをひとつのグループにまとめます。文化がなければ、僕たちはバラバラの存在です。ですからそれは、どれほど僕たちがまったく新しい文化を創っているのかを表しています。そしてそれは同時に僕が自分自身を観る方法の転換も要するのです。僕のここでの経験から、僕は自分が求めているものが何であるのかを知っています。だから、ただそこに飛び込んでいくだけなのです。

一昨日の講座の中でいさどんが「ヒト」について話していたとき、それがどのように成っていくのかを僕は考えました。ひとたび型が創られると、天はその中に生きます。ですから、ひとたび僕が型を目にすれば、僕はその中に生きる必要があるのです。もし僕がそれを物体としては見ても、その中に自らのいのちは入れないことになると、それは生きることにはなりません。そのようにして、万物は創造されます。それは、いかに僕たちが天の閃きであるのかということです。天は型を創り、それからその中に飛び込み、いのちとなりました。これは究極の現実です。そこでは自分たちの存在と僕たちが観るものの間に違いはありません。

いさどん:
究極の現実を語るときに、現実の現実も同時に観ていないと、つまり足元から究極の現実をつなげていかないと、身近なものと自分がつながらなくなってしまいます。ですから、あなたが究極の現実を語っているとき、僕は言葉を聞かず、感覚でそれを受け取っています。そうすると、あなたが言っていることは理解できます。しかし、人々はそれを理解することはできません。あなたの目的は、あなたのまわりにいる人々と創っていく世界です。ですから、身近にいる人々やあなたの現実と向き合い、寄り添い、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)という一から究極の現実の十までつなげられたときに、その究極の現実を語るあなたが身近にいる人々や現実の役に立つ人になるのです。

「現象を持って真実とすべし。」過去には人間社会には評価されず、悟りに至ったたくさんの聖者たちがいました。ヒマラヤにはそういったものたちがたくさんいました。彼らは自らの悟りの道を歩みましたが、人々と共にはありませんでした。そういった魂たちは天に戻った後、今度は人々に悟りを伝えるために、輪廻してまた地上に戻ってくるのです。そのときに、彼らは自らの悟りと他者とともにある悟りのギャップを埋めるのです。本来、悟りは悟ったもののためにあるのでありません。この宇宙の実相のように、調和して共にあること――そのために悟りがあるのです。

今のあなたの話を聞きながら、僕はヒマラヤで悟りに至った行者をイメージしました。実は僕も、初めて人間として地上に降り立ったときにはそのような姿勢でした。しかし最終的には、多くの人々と寄り添うことによって、天の意志を地上に表現するものになれると思うのです。それも、空想の中にではなく、現実の人々との生活の中にそれが現象として現れることが大切です。それは、生活すること自体がいのちの営みだからです。人々の生活のあり方が他の生命と調和し、さらにそれが地球や宇宙の法則と共にあることが大切なのです。調和すべき指針を探さなくても、わたしたちには自然の仕組みや宇宙の法則といった絶対のものがすでにあるのです。

ところが、今まで人間たちはそれを自我によって支配するものとして捉えてきたがために、現実の矛盾を生んでいます。今までのような人間の願望を叶える方向で生きていく限り、必ず行き詰まりを迎え、その矛盾はさらに大きくなるばかりです。ですから、そのような方向を転換し、自らから距離を置き、何が矛盾を創るエネルギーなのかを冷静に観る必要があるのです。その冷静に観る姿勢は非常にリラックスした状態です。天から時代を越えてものを観ること、天から星々の運行を観ること――そのような宇宙的な広い世界観を持つ必要があるのです。

トオマス:
僕がこれまで経験してきたように、すべての物事は僕の先にあります。必要なときが来れば、僕は必要な出来事に出会います。いさどんがよく言うように、僕は理論を観て、「これが最終結論です」と語る傾向があります。でも今さっき僕が話したように、型がまずあって、その中に天が入らなければいけないのです。いさどんは、これは理論であり、同時にそれは現実の生活なのだから、それを経験する必要があると伝えてくれましたね。そして経験が僕たちを次なる段階へいざなってくれるのです。

いさどん:
その経験があなたの先に観える目標をリアルにしてくれるのです。

トオマス:
いさどんが「僕があなたぐらいの年齢だったとき、僕はもっと暴走していました」と伝えてくれたとき、それは僕の人生の一部だったと感じました。僕の中にも激しい気性があるのです。神は絶対の存在ですから、神は「もう、そのようにする必要がありません」と伝えてくれます。しかし、僕が激しかった頃、違う現実があることに気づき始めました。今まで僕はそれが悟りに至ることで、経験の意味することだと考えてきました。しかし、それを人々に伝えようとしても、彼らは僕を理解しないのです。もしくは多くの人々は「何かがそこにあるね」「それは雲を見るようなものだね」「雲の中に顔が見えるね」と言うのです。そのように人々はそれぞれの世界の中で生きているのです。そこで僕が認識したこととして、この世界は他者からどんどん隔絶されていっています。事実、いのちのあり方のレベルはどんどん下がっています。ですから、気付きがあっても、それは生活をより良くするものではないのです。この状況はなんて馬鹿げたことなのだろうと僕は気付きました。僕たちはそこからポジティブに物事を捉えることもできますが、それは自分自身のためにそうするだけなのです。

いさどん:
もしくは、もっと広いスタンスで捉えると、ポジティブに捉えることもできるのです。自分とこの世界を分離していくような思考になると、ポジティブに捉えることはできません。そこでどちらの方向を向いているのかが大切なのですが、あなたは先程この世界はどんどん悪くなっていると言いましたね。それは事実です。人々は自然と共に生きることを忘れ、自然を感知する能力を失い、神を語っても自らの精神の中に神は生きていません。事実、人間の意識は神の存在からどんどん遠く離れていっています。

地球暦で言うと、一番強く近い角度が「結び」の状態です。それは二つの惑星が太陽の片側で同一線上にあり、二つの異なる意識が完全に寄り添っている状態です。それに対して、「開き」の状態は二つの惑星が太陽を挟んで同一線上に向かい合っている状態を指します。それは一番遠い角度です。そして距離が遠くなればなるほど、広いスタンスでつながることができるのです。一見遠くなったように見えても、その真ん中に絶対なる太陽があることに気付けば、遠くなった分だけ広い世界を表現することができるのです。

同じように、この世界が一見悪くなっているように見えたとしても、それはそのギャップの分だけ、広い意味で人々を進化させ悟らせるエネルギーにもなるのです。このように悪く見えることは、同時に良くなることでもあるのです。

トオマス:
僕はインドのシヴァ神と関係があります。なぜなら僕は災害を見ると、わくわくするからです(笑)。

いさどん:
僕も今、シヴァ神をイメージしながら話していました(笑)。今日は3月13日ですから、一昨日の3月11日は東日本大震災の5周年の日でした。今日はその5周年を迎えた最初の日曜日なので、一昨日から今日にかけて日本ではあの震災に関連する特別番組がたくさん放送されました。多くの人々はあの震災を不幸なことが起きたと捉えています。そして多くの人々は、破壊されたものを復活させることを考えています。しかし、あの震災が起きたことは人々に不幸だけをもたらしたのでしょうか。

あの震災は、人間たちが所有の心で創ってきた矛盾を洗い流してくれました。もし人間が自らの意志で所有を放棄することができていたら、天はあの震災を与える必要はなかったでしょう。そのためには、矛盾がピークに達し、それが爆発するようなことになる前に、常に矛盾を瞬間瞬間解放できるだけの心の柔軟性が必要なのです。あの震災は、人々の囚われのエネルギーが究極を迎え起きたようなものですからね。受け取り方によっては、いろいろな捉え方ができるのです。

ですから、僕もあなたと同じことを考えていました(笑)。

トオマス:
それは、多くの人々が理解することではありませんね。

いさどん:
地球上での人間の営みは、人間の心の表れです。現象という鏡からわたしたちは自らの姿を観ることができるのです。そしてそれが鏡としてわたしたちに伝えていることがわからなければ、人間は自らの行いを報いとして観ることになります。それは極めて強制的な学びです。それは、神がわたしたちと常に向き合っている証拠とも言えます。神と共にこの世界を創っているという神の側にわたしたちが立つならば、自らの自我ではなく、天の代理として天の意志を表現していると捉え、すべての出来事を受け取るようになります。

そのときに、いのちは自由に表現されます。わたしたちはとても自由な場所にいることが理解できるのです。それこそが、神さまが願っている豊かさなのです。そしてあなたが語る最終段階は、そこにあるのです。そこで最終段階が目的というよりも、始まり(ヒ)から最終段階(ト)までのすべての過程を踏んでいき、その結果最終段階に到達することが「ヒト」であり、「ヒト」の道です。それに寄り添ってくれているのが神の存在であり、宇宙の実態です。

わたしたちが自らの神聖に目覚め、神と同じように他のすべての存在に寄り添っていくと、神と同じように存在できると僕は考えますが、どうですか?

トオマス:
いさどんが話していることを、僕は神のたくさんの声だと感じています。いさどんと僕は同じことを違う切り口で語ります。僕がさっき話したように、神は型をまず創り、その中に入り、それが「チョン(天の意志)」です。そのようにしていのちを与えます。僕たちは自分自身のためにいのちを創造し、生きるためにその型の中に入るのです。だから、「ヒト」の道はまず、何も知らないところから始まります。それから人生を通して、僕たちが誕生する以前から存在していた意識を拡大させていくのです。

いさどん:
それは思い出していく道でもあります。

トオマス:
それは最終的に僕たちが自分自身と向き合うまで続きます。そして、「わたしはすでにこれをしてきた!」とわかったとき、それが「ト」になるのです。

いさどん:
実は、その「ト」が第一段階のヒからトであったり、第二段階のヒからトであったり、さらには第十段階のヒからトであって、そしてその全体がまたヒであることがこの世界の構造だと思うのです。わたしたちはこのように多次元階層の無限なる世界にいるのです。ですから、今自分が考えられる世界と目指しているところがすべてだと思うと、実はそこをクリアしたときに次の目標が観えてくるのです。神さまは無限であり、この世界も無限なのです。それは、内なる微細な世界を観ても同じです。それを、今のような科学する思考で理解しようとしても限界があります。そこでは探求しようとする思考ではなく、感じることが大切です。それこそ、自らのすべての細胞のセンサーを使って感じ取ろうとすることです。

これはカタカムナで言う、カムミを感受するということです。つまり、体中のすべての細胞を花開かせ、そのアンテナの能力を全開にするのです。そしてその一つ一つの細胞のアンテナがすべてオープンになると、その一つ一つのアンテナの芯に「チョン」が入るのです。その状態で天とつながることが男女の最高の交わりの姿であり、それをカタカムナでは「カムウツシ・アマウツシ」と呼びます。

今回の真学校ではそれについて理論的な話しかできませんでしたが、本来カタカムナの世界ではそれは体現的なこととして可能であると言っています。今のところ、それをそのような形で伝えている人は誰もいません。これから今の価値観を超えて社会が創られるようになると、それを現実に表現できる人々が現れてくることでしょう。おそらく、今、10歳以下の子どもたちやこれから生まれてくる人たちにはそういったことが可能だろうと僕は観ています。

トオマス:
僕の役割を観ると、僕はただ天が入るための空間をつくるためにここにいます。もはや逆行できない人たちはここに引き寄せられてくることでしょう。それは高齢の世代の人たちです。しかし、若い世代の人たちはそういったことに自然に引き寄せられていくのです。

いさどん:
わたしたちは自らの人生を区切って捉えがちですが、時代の一部を担っていると捉えることが大切です。わたしたちの人生は、列車が線路の上を走るときの枕木一つ一つの間隔と同じ構造であることを知る必要があるのです。駅に着くたびに時代は移り変わるのです。そして駅に着くたびに新しい時代を創る人々が次の時代を表現するために乗ってくるのです。同時に降りていく人もいます。そこで自らの人生は枕木一つ一つの間隔であることを知る必要があります。枕木一個から次の一個までの間隔を始まりから終わりと観ることもできれば、それは長い列車の旅の可能性をつなぐ一コマにしかすぎないのです。

トオマス:
それは僕の言葉で言うところの「悲しみの喜び」です。それはとても美しいのですが、同時にわたしたちはそれを所有することはできないのです。

いさどん:
ハッハッハ。所有したい心があるから、悲しみになるのではないですか(笑)?自らのスタンスを広くすれば、所有しなくなるのです。狭く観るから、所有してしまうのです。自分という存在はこの世界にあると思えばあるのですが、ないと思えばないのです。ですから、昨日僕が午前中に伝えたように、リセットすればすべては幻なのです(笑)!意識すれば現実になるのです。わたしたちは生から死に向かって現実を観ていますが、この現象世界の出来事は死を迎えると幻になるのです。わたしたちはその枕木一個一個をつないで、人類としての旅をしているのです。それは人類の始まりから人類の終わりへの旅であり、それはほんの一コマで、生命の始まりから生命の終わりへの旅であり、それもほんの一コマであり、地球の始まりから地球の終わりへの旅であり、それもほんの一コマであり、宇宙の始まりから宇宙の終わりへの旅であり、きっとそれ以上のスタンスもあるのでしょう。それがもし無限にあるのだとしたら、わたしたちがこのように分析するよりも、無限の宇宙を感じることのほうがもっと大切なのです。そのときにわたしたちは解放されます。OKですか?

トオマス:
OKです!それはいかに神がシンプルにこの世界を創造したのかということですね。

いさどん:
そうです。この究極のシンプルと、究極の緻密さと複雑さをこの世界は表現しているのです。ですから、どちらも言えますね。宇宙や神を思うときに、常に相似形で対向発生という単純な構造でありながら、極めて緻密で複雑な世界ができています。それも、わたしたちが物理的に認識できるこの三次元どころか、多次元世界に渡ってそれが表現されているのです!これはわたしたちが今三次元で使うために与えられた脳では解釈できません。感受する脳の機能を宇宙に解き放つことによって、その解釈は可能となるのです。脳細胞のすべてを宇宙空間に解き放ち、それをセンサーにして感じ取るのです。そうすると、宇宙の実態はきっと感じ取れるのでしょう。そのときには今、わたしたちが観ている現実世界は些細なことになりますね。

トオマス:
そのとおりですね!(いさどんの両手を握り、そこに自らの額をつけながら)すべてに感謝しています!本当にありがとうございました。

いさどん:
良い出会いでした。こちらこそ、ありがとうございます。

 
――

その1週間後、トオマスから木の花ファミリー宛に近況を知らせる次のメールが送られてきました。

――

 
みなさん、お元気ですか? バリに戻ってから1週間が経ちました。こちらに戻ってからはすべてがまったく新たな始まりのようであり、むしろ難しい時間を過ごしています。世界には謙虚になるべきことがたくさんあり、神が自らの仕事を任せる魂たちは常にわたしたちを鍛えることに熱心なのです!

僕は家に帰ってから、元気がなく、真学校で得た明瞭さを見つけることをとても難しく感じました。ハハハ。僕はまさにヒの段階に戻ったようです!

33歳になったら僕は悟りの境地、すなわち僕が「ヒト」と呼ぶ境地に到達するだろうと言われたことがあります。しかし、その道にはたくさんの訓練があり、僕が永遠なる光の中に座ることができるためには極端に深い闇の中へ入らなければならないのです。すべてが神であるように、僕は神への新たな勇気と愛を感じました。僕が階段を降りたとき、33という数字を見て、神のみが僕の道に明瞭さをもたらすことができると感じました。その後、「阿吽の世界へ」を読みながら、神はずっとわたしたちと共にあることを感じました。神は秘かにわたしたちをこの道にいざなっています。それはたいへん微細なので、わたしたちは幾度となく神がわたしたちと共にあることを意識さえしないのです。

「阿吽の世界へ」の中にあるいさどんと僕の会話を読み、これは神のすばらしいユーモアであると同時に、神の創造物に対する美徳だと感じました。だから、わたしたちは決して見捨てられることはなく、事実わたしたちは常に自分自身の歩みをたどりなおし、新たな悟りと開かれた心と共にあるのです。真学校での僕の時間を読み返す機会を与えられたことはたいへんすばらしいことです。たった1週間前のことですが、通り過ぎていくことの中に知恵をすでに見出しているように感じています。ギャップは埋まってきています♪

木の花のみんな(もちろんいさどん)にすべての愛を
トオマス

 

 


27日目午前「心豊かに生きる」~後編

前編より ~

「心豊かに生きる」の時間も残すところ30分あまり。さて、みんなは共に階段の間を埋めていくことができるのでしょうか?!

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たえちゃん:
しゅうくんが素の自分を出した最初の段階と後の段階を今考えてみると、後の段階ではしゅうくんは意見を出すたびに「それで大丈夫かな?」とか「いいかな?」とみんなに確認していました。

いさどん:
それは、しゅうくんがみんなに配慮していたということですね。

たえちゃん:
そうです。

みかちゃん:
進化していった。

いさどん:
それはどのように進化していたのですか?

みかちゃん:
最初は相手の気持ちを考えないで独りよがりだった。それが今度は独りよがりだとわかったから、みんなと確認を取っていくようになった。

しゅうくん:
最初の頃は、自分が正しいと思ってみんなに言っていました。

いさどん:
ということは、最初はある意味押し付けるような感じだったということですね。

しゅうくん:
はい。それで自分が学んだ後では、自分が感じたことを情報として出すようにしました。

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いさどん:
それは、ひとつの意見として出していたということですね。

しゅうくん:
そうです。

みかちゃん:
それはすごく違うよね。

いさどん:
大分階段がかかってきましたね♪

みかちゃん:
みんなもそういったしゅうくんの違いは感じていましたか?

やすこちゃん:
真学校の最後のほうでは、しゅうくんはそれほど感情を乗せずに発言しているような印象を受けました。

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いさどん:
そうすると、そこでのしゅうくんの正直な発言は調和につながる発言になりますね。しゅうくんもみんなも、そこに至るのに大分時間がかかりましたね。

さて、この時間がかかったことに対して、もっと早く、極端なことを言えば瞬間にできる方法はないのでしょうか?

エリちゃん:
何かの結論をみんなで出す前に、みんなが自分を表現できたと感じる場を持つことが大切なのかどうか、今考えています。

いさどん:
それは自分たちの気持ちを出す場を先に持つということですか。

エリちゃん:
もし、自分の意志がまわりと違うのであれば、自分の一部を全体の調和に足すために、それを出していくということです。

いさどん:
それは何でも言える場を最初に設けるということですか。

エリちゃん:
何でもかどうかはわかりませんが、もしその場に共鳴しないのであればそれを表現するということです。今、わたしがここで言いたいのはしゅうくん一人がこの場の混乱に責任があるのではなく、少なくともわたしは、いさどんがみんなで場を創っていると話したことを理解しようとしているのです。だからわたしは今、トオマスが話したこととのギャップを埋めようとしています。みんなの心はしゅうくんが出したものをそれぞれ解釈しているので、もしみんなが自分を正直に表現していったら、そこには調和の場がもたらされるかもしれないのです。しかし、しゅうくんだけが自分を表現すれば、まわりの人たちはしゅうくんが押し付けがましいとか、怖いと解釈し、不調和が生まれるのです。だから、ここで質問なのですが、もし誰かがみんなをエーッと驚かせるようなことを出しても、みんなもそこから自分を出していけば、それは調和になるモデルとなるのでしょうか。

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いさどん:
それをわかりやすく解説すると、しゅうくんはここの中のひとりとしてここが良い場であるべきだという善意のもとに、それはあくまでも彼の価値観で素の自分を出したのです。エリちゃんはそれをみんなでやったほうがいいのではと考え、そのことによって正直な場ができて、その結果ここが少し混乱するかもしれないけれど、みんながこの場を良い場にしようとする心が共通していれば、最終的には調和の場になっていくということですね。

エリちゃん:
それがわたしが言いたかったことです!これは小さな仕組みだけではなく、大きな仕組み、たとえば家庭、教室、政府機関といった組織でもそうなのですが、みんながコミュニケーションをとるために話したり、意見が聞かれることを許さない仕組みであれば、わたしたちは調和に到達することはできないのです。なぜならそれは一部の声を聞くだけだからです。

トオマス:
エリちゃんが言ったことを聞いて思ったのは、もし僕が明快に客観的に聞いていなければ、他者の意図を聞くことはできないということです。そこでは自分自身の価値で聞くことになるからです。そうすると僕は、「それは違うよ!合わないよ!」と言うことになってしまうのです。それで他者の話を自己流に判断してしまうのです。それでは僕たちは現実に調和的な仕組みや目的を得ることはできません。だから、僕たちは他者を聞くときには明快で客観的である必要があるのです。そしてそれは自らの価値観を変えることになるかもしれないのです。

いさどん:
それは対象と寄り添うということですよね。さて、階段はどのくらい埋まったでしょうか(笑)?

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一人ひとりにはそれぞれオリジナルな事情があるので、ここで一律の共通認識を持つ必要はないと思います。しかし、明らかに一人ひとりはこの1ヶ月間を経て、変化していることは確かです。ここで何か完璧なものを得て、これからの人生をスタートしていくのではなく、自分の本当に出会い、その位置をスタート地点にして次へ進んでいけばいいのです。

1ヶ月間の学びを通してみなさんにお伝えしたかったことは、広い世界観を持つことによって、自分のキャパを広げ、世界に多様性を観て、いろいろなあり方を認めましょう、ということです。それは外に向かっての取り組みです。逆に内に対しては、自分の真実を知りましょう。それはあなたにとって受け入れがたいことでもあるかもしれません。多くの人は自らの幻想を見ているのです。そして「こういうふうに見られたい」「こういう人でありたい」と思って生きているのです。それが自分に対する囚われた感情です。ですから、感情をオーバーラップしていたら、本当の自分は観えません。そして感情をオーバーラップしていたら、外の世界も常に自分の感情を通して見ることになりますから、本当の世界を観ることはできません。そういったあなたに対して、常にこの世界はあなたの心の状態を忠実に反映した出来事を返してくれるのです。それがこの世界に生きることであると同時に、神様の意志であり、宇宙の法則なのです。

そこで、まず大切なことは、自分にとって印象が良かろうが悪かろうが、真実の自分と向き合う勇気を持つことです。それには努力が要ります。その勇気と努力の上に広い世界観がないと、ありとあらゆる可能性・多様性の中で真実の自分をより分けて、観ることはできません。まず内を観て、本当の自分と向き合い、それを認める。そして外を観て、あなた以外の多様性を認める。その中であなたが生まれてきた意味を存分に発揮するためには、この世界に存在する自分に与えられたピースを見つけるということです。そこにはあなたにしかできない役割があって、自分自身が充実した人生を送りながらこの世界の役割を果たすこともできるのです。

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今日はこの階段を埋めていくという話をしました。途中でトオマスが最終結論の話をしてくれましたが、それはすでに完成された境地の場が用意されていて、この世界に存在しているということです。しかし、今はこの段階にいるのですから、そこにはいきなり到達できないのです。ですから、わたしたちはその過程を踏んでいきながら、そこへ行くための道である階段を一段ずつ登っていかないといけないのです。そこに思惑や感情が入れば、その過程を飛び越えたくもなるのです。そこで、冷静に自らの感情にも他者の感情にも寄り添っていく必要があるのです。

そういった歩みの過程では、遠回りをすることもあります。無駄な時間を使って、エネルギーを無駄にすることもあります。それはなぜかというと、自らの感情がオーバーラップすることにより、本当の自分自身も相手も観ていないからです。

先程のしゅうくんの話に戻ると、ここに集った人たちはこの場を良くしようという善意でここにいました。しかし、多くの人が自分との違いを先に見るのです。それは自我が優先しているからです。つまり、自分の基準が優先しているのです。

日本では、「一を聞いたら十を知る」という言葉があります。カタカムナでいうと、ヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)のプロセスを経て熟知したヒト(一+十=十)は、人の完成された悟りの姿です。それは一から十までの道とも言えますが、ヒトは一と十であり、その間がありませんね。道がわからないものは一から十まですべてを歩まないといけないとも言えるのですが、ひとたびその仕組みがわかったものは、現れている現象の奥にその本質をすべて観ることができるのです。

そのときに、今の話の中では本質をどこに観ればいいのでしょうか?まず、そこに登場する人たち全員に善意があったのです。そして、善意を最初のベースにおいて物事を観たときに、お互いの善意の違いを理解し合えば、あとはつなげるだけなのです。それが「一を聞いたら十を知る」ということです。実は、途中の学びはヒトが完成されるといらなくなるのです。

それを違う言葉で表現すると、「阿吽(あうん)」です。日本の言葉には48音があり、「あいうえお かきくけこ・・・ん」で終わります。そうすると、「あ」と聞いたら「ん」と答える。それですべてがわかって、そこに調和が生まれるのです。これが宇宙の最終の実相です。そして人間にとって可能な最終到達地点です。わたちたちが目指すべき到達地点はそこなのです。

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ということで、階段の間が抜けていたのを一気に埋めていきましたが(笑)、みなさんにそれぞれの個性があるように、それぞれの心にふさわしくどこかが抜けているのかもしれません。みなさん、ヒトという完成されたものの道があることを理解してください。そして、みなさん一人ひとりにふさわしく、その抜けている道をこれから自分で埋めていき、ぜひ「ヒト」として完成された人生を生きてもらいたいと思います。この仕組みがわかったものは「ヒト」となり、「一を聞いて十を知る」ことになり、そして「阿吽」の世界を生きることになるのです。

では、時間を少し過ぎましたが、これにて1ヶ月間の真学校のすべてのプログラムを終了します。みなさん、ありがとうございました(みんな、拍手)。

いさどんに抱き着くトーマス
いさどんに抱き着くトーマス

――

 
この日の夜の大人会議では、今日のプログラムの時間についてシェアする場が持たれました。その中でトオマスは次のようにみんなにシェアしました。

 
トオマス:
こんばんは!

みんな:
こんばんは!!

トオマス:
今日の講座が終わったとき、僕はトイレの外でひそかにいさどんを待っていました(笑)♪

いさどん:
(拍手!!!!)

トオマス:
というのも、今日僕は「ようこ」になろうとしたのです!

いさどん:
僕がトイレから出たら、トオマスによく似たようこがいてね(笑)、どちらだか区別できませんでした(みんな、爆笑)。

トオマス:
僕は今、もっと繊細であるよう取り組んでいるところです。それでトイレから出てくるいさどんにタオルを差し出したのです♪

いさどんがトイレから出てきたとき、「最後の最後ですべてを料理できましたね」と伝えました。「ヒト」の境地に到達するのは山登りのようです。山の頂上が「ト」です。しかし、いったん「ト」に到達したら、また下に降りてくる必要があるのです。そして、他者と共にまた登っていくことが大切なのです。

この1ヶ月間の真学校は僕たちにとって心と向き合う練習の場であり、それは道場のようなものです。そしてこの世界は僕たちが実践していく場です。そこで僕たちは共に歩んでいくのです。

もし僕たちがこうした学びすべてを1ヶ月間の真学校の初日に知っていたら、それでは真学校は成立しませんでしたね。常にもうひとつの山があるように、常にもうひとつの真学校があるのです。だから、僕はまた次回ここに戻ってくるのを楽しみにしています!

いさどん:
今日の一番のメインイベントは、講座が終わった後に僕がトイレに入ってトイレから出てきたときの出来事です。以前、真学校の受講生には講座の中で話したことがあるのですが、僕はトイレに入るとき中にある手洗いを使わず、いつも流し台のところに行って手を洗います。流し台の前にはタオルがかけてあります。僕が手を洗って、そのタオルを取ろうとすると、すっとそのタオルが自動的に上がってくるのです!だから、僕はタオルを取るためにかがんで足を曲げる努力をしなくても、手をタオルのほうに向けただけで、タオルがちょうど良い高さに上がってくるのです。いつも「あれっ!」と思うと、そこにようこちゃんがいて、パッとタオルを上げてくれるのです。それはなぜかというと、たとえ足を曲げるにしろ、手を少し伸ばすにしろ、そのエネルギーをようこちゃんは僕に使わせないようにしているのです。僕のエネルギーを少しでも僕にしかできない役割に使ってもらうために、ようこちゃんはサポートしていると言うのです。この話はようこちゃんの心構えということで受講生のみんなにも以前話したことがあったのですが、今日トイレから出たら、タオルを胸の前で持ちながら両手で僕に差し出す人がいたのです!それで、「ようこだ!」と思ったのです(笑)。トオマスは流しのところではなく、トイレの入り口の前に立っていたのです。それから僕は流しへ行って手を洗い、トオマスが差し出してくれたタオルを使って手をふきました。そのときに話したのがさきほどトオマスが話してくれた話です。

しゅうくんの話は、彼が感情的だったときから、1ヶ月間の真学校を通して学んでいき、そこで自分のイメージが悪くなって振り返り、みんなに心を配るようになっていきました。しゅうくんは最初も素の自分を出してまわりを混乱させました。みんなも素の自分を出して、場を修正しようとしましたが、できませんでした。しかし結果として今日、最終的にしゅうくんが発言したことにより、みんなにもたらしたものはみんなの調和でした。

実は今日、僕は企んでいました。というのは、この1ヶ月を通してどうしてもここまでは語りたいということが自分の中にはあったのですが、全体の場がそこまで語る段階に至っていなかったのです。だから、実はとうとう語らずに終わりそうだと思っていました。そうしたら、今日の最終プログラムの中でしゅうくんが手を挙げ、自らの振り返りを語り始めました。そのとき、時間は1時間弱しか残っていませんでしたね。そして、みんなの考えを聞いていくうちに、僕はある映像を組み立てるイメージをしながらファシリテートしていました。途中でトオマスが一番上のトを語りました。最終到達地点を語ったのです。それはそのとおりなのですが、その間に階段がいるのです。階段がないのに、一番下の話から一番上までの話はつなげて理解できないからです。そうしたら、僕が誘導していくうちに、たえちゃんがその途中の階段をかけ、よしやんがかけたり、いろいろな人がその間を埋めていった結果、ヒからトまでの階段の十段が少しずつかかっていきました。

そのような中でエリちゃんから「みんなで自由に話せる場をつくったらいいのでは?」という話が出ました。それはそのとおりなのですが、みんなが自由に話せる場はなかなかできないのです。それはある意味仕上がった場所ですからね。それから、みんなが自由に話せる場所であっても、そこに共通した目的がないと、話がたくさん出て、時間がたくさんかかってしまうのです。コミュニケーションの学びの場では人が心を開いて何でも話せる場を創って対話していくことが大切だといわれるのですが、実はそこを超えた世界があることを、1ヶ月かけてみなさんに伝えたかったのです。

今日は講座の最終日だったのでそこまで到達したかったのです。途中では「今日はちょっと無理かな?」と思ったのですが、しゅうくんのシェアから最初の一が語られ、そのあとトオマスから十が語られ、途中が語られていく中で、いろいろな人がその間を埋めていきました。しかし実は、このように時間をかけて埋めていかなくても、たちどころに通じる心のあり方があるのです。

それが日本で言う「一を聞いて十を知る」です。最初、みんなの元にある心は善意でした。みんなが言葉の奥にある善意を互いに感じとれたら、自動的に互いの心がつながり、そこで信頼の場ができあがり、一から十の場ができるのです。そこに集ったということが一ですから、そしてみんなが善意だと確認できれば自動的に十になるのです。カタカムナで十は完成を示すのですから、みんなが善意であることが理解できれば、その場は心が完全にオープンで、駆け引きも何もない場になります。そこではみんなが正直に出していく場ですから、「あなたはどう?」「あなたは二段ね」「あなたは五段ね」「あなたは八段ね」とポンポンとはめていくと、たちどころに一から十が完成するのです。

しかし、今は一人ひとりの意志を聞いて、一段一段をはめる作業がいるのです。そこでは互いの善意が確認し合えていたら、細かい打ち合わせはいらなくなりますね。誰かが「あなたには一をやってもらいたいんだ」と言ったら、あなたは「これは最終的にはここにつながるんだね」と理解し、まわりにいる誰かが「それだったらわたしは二をできるわ」と言うようになっていき、それが「阿吽」の世界につながるのです。人の求める究極の世界は「阿吽」なのです。そうすると、その場では心の調整もいらなくなります。

この1ヶ月間の真学校を通して、そういった世界があるというところにまで僕はみんなをいざないたかったのです。そして今日、それに間に合ったと思ったときに、講座の後にトイレに入ってトイレから出たら、トオマスがようこちゃんをやっていたのです!以前僕がしたようこちゃんの話をトオマスは直観で感じ取り、タオルを僕に差し出していたのです。

トオマスは最初に十を語りましたが、それは正解なのです。それは、みんなが共通して北極星を持つことにつながるからです。しかし、トオマスはいつも北極星を先に語りますが、みんながまだそれを理解していないところで北極星の話をしても、それでは意味がありません。それで、トオマスが僕にタオルを差し出した後に話したのは、登山をして頂上に到達したものはそれだけの価値を知っているのだから、逆にこれから登山するものにその道を示すことができるのです。そうすると、頂上に到達した後、また降りてきて、一から行くものに寄り添っていくと、ヒフミヨイムナヤコトの道を他者にいざなうことができるのです。トオマスもこれからそのように生きていけるといいね、と伝えました。

それで今日は無理かなと思っていた話が、そこで完成したのです!僕がこの1ヶ月間、みなさんに伝えたかったことが最後の最後で語れました。僕はとても満足しています。

トオマス:
しゅうくんと僕が一緒に歩いたら、「ヒト」になりますね♪
※トオマスは、ヒール(かかと)とトゥ(つま先)を交互に「ヒ」「ト」「ヒ」「ト」と動かしました。(みんな、笑)

僕は今、いさどんのようですか(笑)?

いさどん:
(OKとジェスチャー♪)

トオマス:
僕は子どもの頃、取り扱い説明書を読むのが嫌だったので、「僕は何でも知っているよ」と思って、バイクを組み立てるときでも何でも、途中のプロセスを抜かしてきました。

いさどん:
だから、壊してきたのでしょう(笑)。

トオマス:
そのとおりです!それで最終的には自分自身に怒って、最初のステップに戻って適切なる方法でやり直さないといけなかったのです。だから今は、すべてのプロセスが大切なのだと本当に感じています(みんな、大拍手♪)

 

 


27日目午前「心豊かに生きる」~前編

1ヶ月間の真学校、最後の講座となる「心豊かに生きる」というプログラムの中で、受講生ひとりひとりがこの1ヶ月間を振り返る時間が持たれました。その中で、受講生のしゅうくんは以下のようにこの1ヶ月間を振り返りました。

しゅうくん
しゅうくん

しゅうくん:
僕は1ヶ月間の真学校を受ける前はここでヘルパー滞在をしていたのですが、この1ヶ月間はそのときとは違い、常に生活を共にしている仲間との間で自分の癖がたくさん出て、こんなにも僕はまわりをひどい状況にさせるのだと自分の影響力の大きさに気付かされました。こうやって僕は不調和を起こしていくのだと知ることができました。この1ヶ月間、日記で自分のことを振り返りながら、なんとなく自分のことはわかっていましたが、その状態がそもそも囚われていたことにやっと気付いたところです。わかっていたけれど、やってこなかったことが今、わかったところです。
これから自分がどのように生きていくのかをここ数日間考えていたのですが、自分としっかりと向き合っていくのだと感じています。自分の中では気になることがたくさんあって、自分が大きなことで悩んでいるのならまだいいのですが、自分自身が嫌だからとか、そういった狭い世界観の中で僕は悩んでいるのです。だから、そこから離れて世界観を広げていくことを、これから謙虚に素直に取り組んでいきます。僕は今まで本当に傲慢だったと思っています。今は素の自分を出していることで、少し楽になっています。

いさどん:
ひとつ質問があります。これまでは自分の癖をそのまま出してきて、それはある意味、素の自分を出してきたということですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
そこは反省しているのですよね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
反省した結果、今話していることは、ある意味これからも素の自分を出していくという結論に至ったのですよね。

しゅうくん:
素の自分を出していく・・・それは、自分自身で素の自分を認めて、それをコントロールしていくということです。

いさどん:
もう一度言いますね。結局、しゅうくんがやってきたことは自分の癖をよく理解せず、癖のままに表現してきて、素の自分を出したことがこんなにも全体に大きな影響を与えているのだと学んだのです。その結果、結論はやはり素の自分を出していくことなのだと言っていましたね。それは矛盾だと言っているのではありません。その最初の素の自分を出したことと、後で気が付いて素の自分を出そうという結論に至ったこととでは、一体何が違うのでしょうか。

問題の元となった素の自分と、学んだ後に素の自分を出すことによって「これで行こう!」と感じている素の自分との違いは、一体何なのでしょうか?

みかちゃん:
それはこの前一緒にご飯を食べていたときに話したよね。癖のままに出す素の自分と、客観目線も入れた上で出す素の自分の違いについて混乱している人が多いから、正直を出すことがいいことなのかどうなのか。正直を出したらそれでいいのか、という話をしたね。

しゅうくん:
そうそう!でも、それをどのように説明したらいいのか・・・。

いさどん:
どちらも同じ素の自分ですからね。これはとても重要なポイントなのですが、今の世の中もある意味みんな、素の自分を出しているのです。その結果、社会は今のような状況に至り、行き詰っているのです。しかし、自分らしく正直に生きることによって、これは解決できると思うのです。ですから、今までの正直に出していたことと、その後の正直の違いをわかる必要があるのです。「このように素の自分を出していけばいいのだ!」と理解できると、次のステージへ力強く進んでいくことができます。さあ、みなさん、考えてください!

よしやん:
そのふたつは同時にいるんじゃないかな?自分の好きな自分と自分の嫌いな自分の両方が混在している。

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いさどん:
混在しているのはわかりますが、自分の好きな自分というのもそれは自分基準になっている場合が多いのです。これはポイントですよ♪自分の心地良い自分を素に表現したときに、それがまわりにとって良いかどうかはわかりません。それこそが独りよがりですからね。

たえちゃん:
客観視点を持って自分を観て、まわりを把握して、自分を出していく。

いさどん:
それは最終目標ですね。自分を入れた大きな枠の中で自分を観て、全体を把握した状態で自分を表現することは最終目標です。今、ここで質問していることは、最初に素の自分を出したときに不調和をもたらしたしゅうくんがいました。その素の自分はある意味問題だったのです。しかし、そういったことも学んだ上で、最終的にしゅうくんはやはり素の自分を出していくことが大切なのだという結論に至ったのです。それは正解だと思います。以前の不調和をもたらした素の自分と「やはり素の自分を出していくべきなのだ!」というポジティブに解釈できる素の自分の違いは、一体何なのでしょうか?

たえちゃん:
最初の素の自分は感情が伴っていて、感情をコントロールしていない素の自分。

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いさどん:
それは全体に何をもたらしましたか?

のぶくん:
しゅうくんの感情の痛みだと思います。

いさどん:
いや、しゅうくんはまわりに何をもたらしましたか?

のぶくん:
まわりに不調和をもたらしたことで、しゅうくんが傷ついて、そこで学んだということではないでしょうか?

いさどん:
それはしゅうくんが学んだのですか?

のぶくん:
そうです。

いさどん:
そうすると、まわりはどうだったのですか?

のぶくん:
まわりも学んで、しゅうくんも学びました。

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いさどん:
ということは、しゅうくんが感情をコントロールしないで出した結果、まわりもしゅうくんも学んだとしたら、それは悪いことではありませんね?しかし、その状態だと学びは学びでも、良くない見本として、つまり教訓としての学びになりますね。その教訓を超えていくときに、やはり素の自分を出さないといけないとしゅうくんは言いましたね?僕もそうだと思うのです。そこで、振り返る前と後とでは何が違うのか?場を乱すような素の自分を出し続けることと、振り返った後の素の自分を出すこととは違いますよね?

しゅうくん:
感覚ではわかるのですが・・・

いさどん:
言葉にならないということですね。

しゅうくん:
はい。

いさどん:
あなたは以前の素の自分を出したときの体験と、その後に「やはり素の自分を出すべきだ」という体験の両方をしたのですよね。その感覚の違いを言葉にしてみたらどうですか?

しゅうくん:
以前はとても苦しかったです!まわりに自分の感情をバーッと出したときにはみんなとの距離をとても感じました。それで自分もどんどん苦しくなっていって、孤独になりたかったし、そうするとまたどんどん自分が辛くなっていくと思って、「これではまずい!」と思って切り替えたのです。

いさどん:
そのときに、まわりを混乱させようと思って、やっていたわけではありませんね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
感情のままに出したとき、何が目的だったのですか?

しゅうくん:
・・・これといった目的はなかったのですが・・・。

いさどん:
ただ言いたいことを言っただけですか?僕はあなたのしていたことを把握していますよ。

たえちゃん:
しゅうくんが感情を出してコントロールしていないときにわたしが感じたことは、「俺はこんなに一生懸命やっているのに、なんでみんなわからないんだ!」というような空気を感じました。

いさどん:
すばらしい!しゅうくんの心はそれですよ♪その背景として、しゅうくんの想いには何があるのですか?

よしやん:
自己嫌悪?

いさどん:
そうですか??

よこなおちゃん:
認めてほしい心。

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いさどん:
そうですか???

たえちゃん:
「俺の言うとおりにしろよ」とか??

いさどん:
そこで、なぜみんなは言うとおりにする必要があるのですか?みんなが言うとおりにした結果から、しゅうくんは何を求めているのですか?

たえちゃん:
自分の成功??

いさどん:
ここでしゅうくんは自分の成功を望んでいますか?当事者であるしゅうくんはどうですか?少なくとも、正解はあなたの中にあるのですよ!これがあなたから出てこないとしたら、自分の感情に対してそれを認識せず、感情のままに出しているということです。しかし、その感情が湧き出てきた元にあなたの意志があるはずなのです。その意志がもう一度何だったのかを確認できるといいですね。

今すぐ出てこないようなので、僕が少し誘導しますが、しゅうくんは最初に力強く想いを出して、素の自分を出した結果、ここを混乱させたと自分で認識しているのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
しかし、混乱させようと思って出しましたか?

のぶくん:
混乱させたいという気持ちもあったと思います。

いさどん:
しゅうくんに混乱させたいという気持ちがありましたか?それは彼の意志ですか?もしかしたら、自分の気持ちを重ねていませんか?

のぶくん:
もちろんそうです。自分視点でしかしゅうくんを捉えられないので、そう言っています。

いさどん:
本当はそこを卒業するといいのですよ。この場所はしゅうくんに寄り添ってみんなで考えることが大切なのです。そこを自分視点でしか捉えられないところに、のぶくんの課題があります。あなたの中には人が同じような共通点を持っていると安心する心があるのです。そこで、あなたの感情はより強く動きます。しかし、今はあなたの感情は抜きにして、しゅうくんの感情について振り返る必要があるのです。

のぶくん:
どうやって振り返るのですか?

いさどん:
そこは本人に聞くということです。自分から見て決め付けるのではなく、本人に聞くのが大切なのです。

のぶくん:
でも、本人でもわかっていない気持ちはありますよね?

いさどん:
それを誘導して紐解いていくのが人のために寄り添うということです。今この時間は、みんなでしゅうくんの気持ちに寄り添おうとしているのです。ですから、そこで自分の感情をオーバーラップさせては、真実は観えてきません。

さて、しゅうくんははじめに強い意志で素の自分を出しました。そうしたら、場が混乱しました。しゅうくんはその混乱を見て、自分が素を出すとまわりを混乱させるのだと気付き、それでは自分に対する印象がよくなかったので自分に対して落ち込んだのです。そのしゅうくんがはじめに自分の意向をよく考えないでそのままストレートに出した心の元は、この場に混乱をもたらそうと思ってやったかどうか?それはどういう心でやったのでしょうか?本当は本人に聞いているのですが、本人がその答えを出せないので、みんなで探っていきましょう。

りょうこちゃん:
みんなとつながりたいから。

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いさどん:
しゅうくんはみんなとつながりたいのですよね?

しゅうくん:
はい。

いさどん:
つながりたい目的は何ですか?

しゅうくん:
より良い世界を創りたい。

いさどん:
そうです!しゅうくんはより良い場を創りたかったのです。しゅうくんはこの場がまとまっていないと彼流に感じたので、この場を良い場所にして、みんなとつながっていきたいと思ったのです。そしてそれを実行したのです。それは悪いことですか?

しゅうくん:
悪くはないです。

いさどん:
しかし、悪い印象しか残っていませんね?

しゅうくん:
はい。まわりから、僕がいらいらしているとか怒っているというフィードバックをもらったので。

いさどん:
しゅうくんが全体に投げかけた意向は、善意ですよね。そのことについてみんながクレームを言ったのは、悪意ですか?

しゅうくん:
悪意ではなかったです。

いさどん:
しゅうくんは全体を良くするために投げかけたのですが、そのことによってこの場が乱れたので、みんなもこの場を良くするために自分の想いを出したのですよね?ここで少し僕がファシリテートしますが、しゅうくんも善意で出した。みんなもそのことによって善意で出した。しかし、当初ここには何が起きたのですか?不調和が起きましたね。みんなは善意で出しているのに、不調和が起きたのです。ということは、ここで何を観るべきなのでしょうか?何を観たら不調和ではない世界が観えてくるのでしょうか?

これはテストを受けているようですね(みんな、笑)。

かずえちゃん:
彼が出した奥の客観背後を観る。

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いさどん:
ハッハッハ。それはまたハイレベルなことを言いましたね(笑)。

かずえちゃん:
その奥にある真意を観たいと今思いました。

いさどん:
そうすると、その奥にあるしゅうくんの真意、みんなの真意を観たら、何が観えてきますか?

たえちゃん:
みんなと調和したい心。

いさどん:
そうです!そこにはみんなと調和したい善意の心しかありませんよね。そこだけを観ていけば、いつでも善意の場ができるのです。しかし、その奥にある善意を観るに至らないと、善意の場にならないし、調和にならないのだと僕は思うのです。

さて、一番重要なところへ来ましたね!しゅうくんが感情的だったことを何気なく振り返ったことから、今わたしたちはとても大切なところへ来ています。少なくとも、しゅうくんが出した不調和は彼の善意から出たこと、さらにその不調和が起きたことに対してみんなはそれを改善しようとして善意から投げかけたのです。しかし、結果としては不調和の場ができました。そこで、みんなの元の心を観たら、すべて善意でした。善意だけだったら、問題はないはずですよね?

よしやん:
その善意を押し付けがましく感じる?善意だけど、悪意の善意?ちゃうなあ(笑)。

いさどん:
えっ!悪意の善意があるのですか??

よしやん:
善意でいても相手がうっとくるということは、善意の押し付け的な感情を感じて、こちらも感情が出てしまう。

いさどん:
それは受ける側の理論ですね。被害的に受けていると、「あなたの善意は悪意が混じっている!」という話になってしまうのです。そうではなく、一番元の心が善意であるということは、善意でしかないのです。しかし、なぜそこで不調和が生まれるのか、考えてみましょう。

トオマス:
僕に思い浮かんだイメージを伝えますね。ここの場のように僕たちが輪になっているとします。それで僕たちはみんな、織物をつくるための糸を1本ずつ持っているとします。僕たちはそれぞれ意図を持っています。しかし、僕たちがその意図を解釈するときには、僕たちはその場に感情をもたらします。そして他の人もみんな互いの意図を解釈し始めます。だから、「これはそういう意図ではなかったから、変えてみよう」ということになるのです。そこで僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなって、確固たる意図を持ったときに初めて、それはその場に反映され始めるのです。だから、僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなると、僕たちは柱になるのです。僕たちは他者にとっての柱にもなれるのです。僕たちが揺れ動くことがなければ、僕たちは状況を変える必要はありません。僕たちは自分たちの意図に対してただ確固たる必要があるだけです。そして、僕たちはありのままの姿で紡がれた調和をその場に観ることができるのです。

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いさどん:
トオマスは最終結論を言ってくれました(笑)!今、トオマスは最終結論の十のところの話をしてくれたのですが、どうもこの場はまだ二か三にいて、これからその先に行くところです(笑)。大分間が抜けていますね。これからそこを埋める必要があります。

たえちゃん:
しゅうくんが感情とともに、善意で素の自分を出したときに、みんながそれをどのように感じるのかをしゅうくんは考えていなかった。

いさどん:
それを解説すると、しゅうくんの最初の素の心はこの場を良くしたいという心で出したのですが、その強い想いはみんなのことを考えないで、しゅうくんの自分の想いだけを出したのです。しかしそこで考えなければいけないことは、彼は善意でこの場のためにやっていたということです。そのときに、善意であっても、この場に不調和の種が蒔かれたということです。

かずえちゃん:
それはまわりへの配慮がなかったということですか?

いさどん:
そうとも言えますし、逆に捉えると、まわりに配慮がなかったということはしゅうくんの姿勢はどうだったということですか?

たえちゃん:
自分よがりだった。

いさどん:
そうですね。

トオマス:
僕のしゅうくんとの体験をシェアすると、僕はしゅうくんの誠実さを感じてきました。僕たちがお誕生日会や修了パーティの練習をしているときや部屋にいるとき、またお風呂にいるときでも、しゅうくんは本当に何かポジティブなことをシェアしたいのだと感じていました。同時に、しゅうくんから不安定さも感じています。だから、しゅうくんは外に気持ちを出しても、それがどのように受け取られるのかわからず、みんながそれをどのように思うのかを知る前に修正してしまうようなところがあるのです。
それから、僕がただ「ありがとう!」と感じているときでも、しゅうくんは僕がそれをポジティブに感じていることを知らなかったこともあります。僕たちは同じ言語を話しませんが、僕は「それはいいね!」と伝えたいだけなのです。たとえばお風呂場での出来事でも、「僕はそれを知らなかったから、教えてくれてありがとう!」と伝えたかっただけなのです。しかし、しゅうくんはそのとき僕に対して感情的だったことを感じました。もしくは、しゅうくんはしゅうくん自身に対して動揺していたのかもしれません。だから、しゅうくんの最初の意図は人の役に立つものであったのに、そのように事は成らなかったということです。しかし、しゅうくんにはポジティブな意図があったことを僕はわかっていたので、僕たちが話し合えば、僕にはしゅうくんの意図していたことがわかるのです。そのようにして、僕たちは一緒にギャップを埋めることができました。

いさどん:
トオマスは大分上から降りてきて、僕たちがわかる言語のレベルになってきましたね(みんな、爆笑)。

トオマス:
はい!今は五まで来ましたか(笑)?

いさどん:
まだ大分間が空いていますから、このプログラムの時間が終わるまでにそれを埋める作業をしたいと思っています。もう一度話を整理すると、しゅうくんはこの場を良くしたいという強い意気込みで、正直な自分を出しました。その元の心は善意です。しかし、まわりの人たちは彼が独りよがりの方針を出したことによって、それを受け取れないがためにここに混乱が起きたのです。それに対してまわりの人たちは、その混乱を修正し全体の場を良くするために、善意でしゅうくんに投げかけたのです。しかし、そのときにまわりの人たちはしゅうくんを問題児として受け取っていたのかもしれませんね。問題児だと感じていたからこそ、しゅうくんも含めてこの場を健全にするために投げかけたのかもしれません。

そして今トオマスが、しゅうくんは誠実な人で、彼は善意のもとにいることをシェアしてくれました。しかし、実際にはここに混乱が起きたのです。だからその混乱を観て、しゅうくんは自分の起こしたこととして振り返って落ち込んでいたのです。それから事がいろいろと成っていった結果、彼はそれを学習し、「やはり素の正直な自分を出すべきだ!」という結論に至ったのです。

全体に混乱をもたらした最初の素の自分も善意であり、後からそれを学び修正して「やはり素の自分を出すべきだ!」というしゅうくんの結論も善意なのです。この違いを埋めていくと、この階段がすべて埋まると思うのですが、いかがでしょうか?

 

後編に続く~

 

 


社会という池に、あなたは何を流しますか

真学校の修了を4日後に控えたこの日、受講生希望者たちは木の花ファミリーメンバーと一緒に、長野県の皆神山へ富士浅間木の花祭りの舞や歌の奉納に出かけ、とても意味深い時間を過ごしました。そして夜の大人ミーティングで、いさどんは以下のように語りました。

皆神山にて、奉納を終えて ー
皆神山にて、奉納を終えたファミリーメンバーと受講生たち

 
いさどん:
僕の心にある絵が浮かんできました。

そこに池があります。
その池が汚れているかいないかは、その周りで生活している人の姿勢の現れなのです。自分の生活の仕方を振り返らない人々は、池が汚れていることの原因に気が付きません。

池の水は自分たちの命であり健康や幸せの元です。しかし自らの姿勢を見ないものにとっては、その池が汚れているのは、「世の中のせい、他者のせい」なのです。しかし池をきれいに保つためには、誰の心にも共通する姿勢がないとなりません。

「私たちは、その命の池をきれいにして、みんなで美しく保ち、そして健康に生きていきましょう。」

この池というのは、私たちの創っているこの社会のことです。
その社会に向けて自分がどんな響きや心を流しているのか。
その結果、今の社会というものをつくっているのです。
誰もが自分は健康でありたいと思い、池の水を飲むときに、健康な水をいただきたいものです。

しかし、その社会の池を作っているのは、あなたなのです。
そこで「あなたはきれいな水をいただいて健康に生きていくということをしたくありませんか」と言ったら、誰もが「そうしたい」というのです。そのためには、あなたが流す心の水をきれいにしないと、社会の水・池はきれいにならないのです。簡単なことですね。

それをするにはどうしたらいいのでしょうか。それは、心の目を開けて自らを観ることです。
自らが美しくなっていけば、同時に自らを取り囲む社会もきれいになってゆくのです。
そんな明快で当たり前の道を、今の時代を生きる人々は忘れているのです。
そんな当たり前のことですが、それをただひたすら真面目にまじめにやっていけばそれが世の中を美しくすることになり、それがこれからの見本となるのです。簡単なことでしょう。

それなのに、きれいになることを「損をする」ことのように思い、素直に受け取らず、ゆがんだ心で社会の池を汚して生きている人たちがいるのです。

あなたはあなた自身をどうしたいのか、生活の糧としてある大切な社会の池をどうしたいのか、そこに暮らす一人一人が自らに問うべきだと思うのです。

そんな映像が今浮かんできたのですが、これはとても明快な話なのです。しかし、世の中にはこのことを明快に理解して生きる人が、まだまだ少ないのです。せめて私たちは、この場をそういった明快な人たちの生活の場としての見本にしたいものです。

真学校に参加された皆さんも、自らがこのプログラムに参加する前にはどのような心だったのか、そして今どんな心をしているのか。
これから真学校が終わって次のステージに旅立っていくときに、どのような心で旅立ちたいのか、自らの価値としてあなたはどんな自分でありたいのか、正直に自らの心に向き合い、そして、真学校の終了を迎えてもらいたいと思います。

 

皆神山からの帰り道、富士山の前にて
皆神山からの帰り道、富士山の前にて

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23日目午後「愛とお米があればいい」

 この日は、いさどんとみかちゃんによる講座としては最後の、「愛とお米があればいい」でした。これは木の花楽団の歌のタイトルからとっていて、歌詞にも深い意味があります。

2016真学校「愛とお米があればいい」

その歌詞をもとにして話は進み、ここ木の花ファミリーで、最も大切にしている「心磨き」の話になりました。

2016真学校「愛とお米があればいい心磨き」
いさどん:
自我を表現することで痛みや学びをもらうということは、人は生きることによって出会う問題事や痛みを受けると、その苦痛から逃げようとすることが多いのですが、本当はその出会いこそが学習する機会となるのです。しかし、わざわざ痛みをもらってまで学ばなくても、自我の出所をよく理解し、その捉われをなくしていくことにより手放し、変化していけるものです。

のぶくん:
自我を表現するとはどういう意味ですか。

いさどん:
自分の心の在り様のままに生きていく、自分の思った通りに素直に生きていくということです。

のぶくん:
やりたいようにするということですか。

いさどん:
その通りですが、反対に、あなたの心の中の思いを、人からどう思われるかと考えて出さないことも、自我を表現していることになるのです。

のぶくん:
出さないこともですか。

いさどん:
そうです。出さないことはあなたらしい自我の表現ですからね。その場合、出すとわかりやすいからすぐに形になって答えが返ってきます。出せば早く痛みや問題を体験することができますが、隠して出さないでいるとその結果に行き着くまでに時間がかかります。その状態を長く続けていると不完全燃焼状態が続くということになりますが、それも自我の表現の結果の一つです。この世界にあって自分が生きているということは、全て自我を表現した結果との出会いです。その結果出会ったことは全て自らの自我の表現に対する答えをもらっていることになり、それをその都度素直に受け取っていけば、人間はどんどん変化し、成長していくのです。そしてそれは変化変容変態を繰り返す宇宙の実相と同じです。だからこの世界に生きることの本質は、率先して変化することを喜びとして生きることなのです。ですから、常に固定概念を持たないでどんどん手放していくことにより新たなものが次々と入ってきて成長していきます。しかし、その道理から離れると、今までの固定された自分が邪魔をして、自分の解釈で正しいとか間違いという基準を持つようになるのです。すでにそこで神様とのゲームに負けていることになるのです。

のぶくん:
自我を手放すとはどういうことですか。

いさどん:
自我を手放すとは、自らの性質やクセに捉われないで、物事を客観的に取り入れるとか、これが正しいという正邪の固定概念を抜きにして物事を判断することです。固定概念を強く持つ人は決めつけが激しく、他者の意見に耳を傾けないものですが、そのような人こそ自分以外の考えも取り入れてみることが必要で、それが自我を手放す人の判断です。この場合、自我を捨てるのではなく、視点をいくつも持つことで、どの視点も物事の捉え方としての判断をするのが客観視点であり、自我を手放すとは、自らの考えを優先せず、かつ固定しないことです。そのように考えると、あなたは今まで強い自我のもとに生きてきて、その結果がそのまま人生に現れていたのですから、これを神様の贈り物と捉えると、神様はあなたの捉われの姿を忠実に示してくれていたありがたい存在ということになります。ただその時に、どのような神様と縁があるかによって現れてくる現象が違ってくるのです。例えば、厄病神が来れば病気になるのだし、嫌われ神なら怒りが現れたり、祟り神なら祟られていろいろな災いに出会うなどということをいただくことになるのです。

今までは人間が困り事に出会い、それを多くの神々を対象にインスタントに救われようと人々が求めた結果、それに応える神々が甘い言葉とともにその欲の心の受け皿となってきました。その結果、お賽銭を投げれば願いが叶うとか、お払いをすれば物事の状況がよくなるというご利益の世界が生まれてきたのです。その他にも、安易にセミナーを受けてバーチャルな体験をし、救われた気持ちになったり、ロックコンサートに行ってストレスが発散され、心が楽になったからとそこに救いを求める等々、根本的な解決をしないで、表面的な手法で解決をもたらす誘惑がこの世界にはたくさん氾濫しています。そのような誘惑のもとに人間の気持ちを引き付けていくのも神の世界の末端にいて、霊的な世界は、そのような誘惑のもとに裾野を広げている実態があります。そしてそういったものが宗教などとなって人間世界にはびこっていましたが、一人ひとりが目覚めて、直接宇宙の実体の大元と繋がれば、これからはそのような人を惑わすものは必要ありません。それがこれからの時代です。

2016真学校「愛とお米があればいい大事なもの」宇宙の実相であり生命ネットワークのベースである「愛」と、生きていくための体のベースになる「お米」の二つがあれば、それ以外の余分なものは求めなくていいのです。ただこの世界はとても豊かになりましたので、その他の豊かさをプラスαとしていただけば、あるのが当然とか、かき集めてやろうとするのではなく、これほど十分に与えられているにもかかわらず、まださらに与えられているのかと思えば、「ありがとうございます」という謙虚な心に人はなります。そういったいただくことに感謝して生きると、もったいないから大切に活かそうという心も湧いてきます。

今の地球人はそのような心にはなっていませんが、これからはそういった謙虚な心になっていかないと、人間の営みの結果、地球のバランスがさらに崩れてしまいます。そしてそれは人間だけがもたらすことなのです。ですから、生活の中に余分なものを必要とする心があると、その分道から外れることになります。だから余計な思考や欲求を持たないことがシンプルに生きるということで、そういった姿勢を保つことを喜びとすることが大切です。人間は不必要なものを持つことを豊かさと勘違いして多くを求めますが、品物を山のように欲深く抱えると病気になると書いて「癌」という字になっているように、そのような欲望を優先してきた結果、今人間は、地球の癌のようになってしまいました。

本来、人は心を探求することが生きることの目的であり、人として、生命として生まれてきた目的なのです。

2016真学校「愛とお米があればいい癌」

さえちゃん:
自分なりに魂の使命が見えていたのですが、今はその真逆に自分がいるので、どうしたらいいのかわかりません。

いさどん:
自分の本当の姿が見えていないものをどうにかしようと思わなくてもいいのです。見えていないのがあなたの今の実体なのですから、その状態のあなたは今は何もしなくてもいいのです。何かが必要になったらその時に自然に見えてきますから、それまで待つこともいただいていくことです。その時に見えないからどうしようと考えること自体が自我なのです。

流れや出会いとその結果をいただきながら待っていればよいのですが、あなたは余分な思考をたくさん回しているのです。それはいただく心がないということです。いただくという姿勢は外のものを内に入れることで、自らが常に変化することなのです。目覚めるというのは自我の捉われを捨てることなのです。そもそも宇宙自体が現状(自我)をどんどん捨てることで変化変容変態を繰り返しているのです。自らをどんどん捨てていけばその繰り返しの新陳代謝により、内と外の区別がなくなり、この世界の実相に近付いていくことになり、逆に自らを保とうとすればするほど、自分と他を区別する方向に進むことになります。ですから、その自分と他者を隔てている区別の心を取り去れば、他者の話はどんどん入ってきます。自らを守ろうとする心があるほど、自分に危害が及ぶのではないかと、自分の考えを基準にして勝手に良い悪いという基準をつくることになるのです。真実は、この世界に良いも悪いもないのです。もしそれがあるとするならば、それは自らが作っている基準なのです。

内と外の区別がなくなってくると、この世界に愚かしいものはなくなって、すべての出来事は神様の愛の表現と受け取ることができるのです。闇に行けば行くほど光は強く見え、逆に光の方に行けば行くほど光そのものになります。このように、どこにいても真理を理解するための仕組みがこの世界にはあるのです。そこに気付けば自我を持つことは必要なくなり、人は悟りの境地に至るのです。人間が勘違いしやすいことは、自らの心が納得するところが良いことで、正しいところだと思っていることです。自分が納得するという状態は、自らの自我が満たされている状態です。その自我に、この世界の実体が中に入ってくるほど柔軟で無条件に変化していく状態になった時に、私たちはこの世界そのものになっていくのですから、その精神状態のことを悟りというのです。

「まとめとしてのいさどんの話」

今回の真学校のスタートに当たって、それぞれの心の位置を、いろいろな情報を提供することにより、一人ひとりの真学校に参加した目的に沿って伝えてきましたが、その理解が進んでいくほど、もともとばらばらであった目的はシンプルになり、実は一つになっていくのです。その意識に至れば、どんな人間も個人の為に生きているという意識の者はいなくなるのです。それは生態系の中の一つの生命であり、生態系の中の人類としての一人の役割を担っているだけなのです。さらに、人類が社会を創造し時代を営んでいく時には、時代の変遷に沿って自分一人分の役割を担っているだけで、そのこと自体が、実は宇宙に生きているのだということに気付くと、その意識状態では自我というものは本来ないことになり、自我を意識している状態というのは、ある意味錯覚していることだとわかります。

例えば、生きるということをどれだけ自分の意志であると認識できますか。生まれてくることも死ぬことも、呼吸することも眠ることも年をとることも、心臓が動いたり血液が循環することも、ありとあらゆる生きるということに対して、私たちには何一つコントロールできることはないのです。もしできることがあるとしたら、自我を表現することで宇宙の法則から外れて病気になったり、辛い思いをしたりという自業自得の出来事をもらって自らを知る道があるだけです。そういった自我にまつわることが、生きる上で人間に与えられている自由なのです。そしてその自由は何の為に与えられているかというと、自我を表現することによって、本当の自らの実体、宇宙の法に沿ってこの地球生態系の中でどのようなポジションをいただきどんな役割を果たすかという、あなただけに与えられた自分というピースにはまることで、時代や世の中の人の為に生きるということに目覚めるという、とてもシンプルな話なのです。その精神に至った者のことを先人たちは悟った者と言ったのです。だから悟らない途上の者は、願望を巡らせ、自我を表現しては不平不満を言い、その結果自らの価値を下げるという人生を生きているのです。人の価値観によって、それでよければよいのですが、今時代は、人類がもうそういった意識の精神状態にいることを望んでいないのです。

その大事に気付く機会に出会えたみなさんは、そういった時代を担うに相応しい縁ある人たちなのです。これからは特別な能力を持たない普通の人たちが目覚めて、この世界に存在するすべての生命、それは微生物一つとっても全て大切な生命として活かされ、必要とされていく時代なのです。

真学校の初めに当たり、みなさんにばらばらの道を提供するとお話ししましたが、実は私たちが生命としてこの地球上で健全に生きていく道は最後には一つなのです。例えば、富士山のふもとから登り始めた時にはみんなの心は別々、それぞれ体力も登り口も別々ですが、最後の目的地である頂上は1か所です。そして富士山とは違ってこれは形のない無限な道です。これが今回の人生でもらった人生の一本道であり、私たちにはそのことを知った者として、力を合わせて歩んでいくことが求められているのです。