たくさんの人に明るい人生を与えてください ~ 私たちが「人格」を学ぶ意味

1ヶ月間の真学校・第8日目。
いよいよ、1ヶ月間の中でももっとも多くの時間をかけて学ぶ「人格を学ぶ講座」が始まりました。以下、講座開始にあたってのいさどんのお話をお届けします。

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いさどん:
新しい週が始まりました。先週1週間は、現代の世界情勢を知り、宇宙をカタカムナで分析するということをやりました。私たちはどういった時代に生き、その中でどのような個性を持ち、どう生きているのか。その結果、自分自身がどのような状態になっているのか。多くの人は、そのことを詳しくはわかっていません。

人生の波があるとしますね。ある人は、その波の中を泳いでいます。ある人は、波にのまれて溺れています。泳いでいるのは、自分の意志がはっきりして、人生を歩んでいるという意識のある人です。一方、人生の海で溺れている人もいます。それはあまり印象の良い人生ではないですね。もうひとつ、サーファーのようにその波を楽しんでいる人もいます。しかしその楽しんでいることが、良いことなのか悪いことなのかは、理解できていません。

人間は、自らの感情的な欲求を満たしてやることが幸せだと、勘違いしているところがあります。それが幸せだと思っていても、実は社会や、自分自身に対してさえも、良くない事をしている場合もあるのです。不幸だと思っていることが、実は今の社会の仕組みや今の時代を表していることもあります。ですから私たちは、自分のしていることがどのようなことなのかを、もっと大きな視点から観る必要があるのです。特に、溺れている人にとってそれは大切なことです。元気に生きている人たちにとっても大切です。なぜなら、その元気で幸せな暮らしが、世の中に悪い影響を及ぼしている可能性もあるからです。

今日から、「人格を学ぶ講座」に入ります。人格とは、皆さん一人ひとりの性格です。人間はそれぞれの人格によって物事を判断し、そして行動します。その行動の結果を受けて、喜んだり、悲しんだりするのですが、その受け取り方もそれぞれの人格によって変わります。皆さん一人ひとりの人格が、人生のすべてにおいて影響しているのです。

私たちは人生の中で様々な出来事に出会いますが、同じ出来事に出会っても、それに対する反応は人それぞれに違います。ところが人生を雑に生きている人は、みんな一緒だと思っています。そして自分の考えを正しいと思っている人は、人にそれを押し付けます。親が子どもにとか、先生が弟子にとか、政治家が国民にというように、いろいろな形があります。優れているとか、正しいという立場に立っている人ほど、そういうことをするのです。

人格を学ぶと、人間は一人ひとり違うことがわかってきます。私たち一人ひとりは地球の細胞であり、各細胞はパラボラアンテナでもあるのです。一人ひとりがそれぞれの独自の視点からこの世界を感じ、得たものを情報として社会に共有すると、社会はその多様性ある反応を分析し、結果としてみんなが喜ぶ世界になります。私たちはアンテナを張り、情報を集め、それぞれに得た情報を共有して、地球が健全になっていくために活かしていけるのです。

人間の体は、ネットワークです。このネットワークは、様々な機能が連携し、互いに情報交換しながら、人体というひとつの生命体を成立させています。そこでは細胞の一つひとつに魂があり、意志があり、それぞれに独立した自分のポジションで得た情報を互いに交換しながら、人体全体の健康を保っています。その姿は、地球生態系とまったく同じです。地球生態系が健全であるためには、私たち人間が、それぞれに違ったポジションで得た情報を互いに交換しながら、その情報を地球全体が健全になるように活かしていくのです。

そのためには、皆さん一人ひとりの人格の個性を理解することです。いろいろな人たちの情報を得て、それを正しく活かすと、社会が健全になります。そして、なぜ自分はこんな出来事に出会うのだろうかとこれまで疑問に思っていたことの、発生の仕組みが理解できると、一人ひとりも明るく健康になります。人は、暗くて物が見えないと不安になるのです。しかし、その問題が解決しなくても、どうしてそうなったのかがわかるだけで楽になるのです。

そんなことについて、この講座では学んでいきます。皆さん一人ひとりの現在の状態を明るく軽くすると同時に、これをしっかりマスターして、たくさんの人に明るい人生を与えてください。

 

 


ちょっとブレイク 〜 御神酒造り

1ヶ月間の真学校は、毎週土曜日がフリータイム。受講生は思い思いに1日を過ごし、外出する人もいれば、味噌仕込みや蕎麦打ち、お菓子作りなど、いくつかのフリープログラムの中から受講生同士で相談をして、やりたいものを選ぶこともできます。
今日は、やすえどんによる「御神酒造り」がありました。

微生物と対話する「御神酒造り」
微生物と対話する「御神酒造り」
やすえどん(右)と受講生のクワン
やすえどん(右)と受講生のクワン

以下、講師のやすえどんより ─────

 

御神酒造り

木の花ファミリーでは、手造りの御神酒を祭事や新月、満月の時に私達が恩恵に預かっている食べ物と共に、神に捧げ感謝して頂いています。お酒と言いましても、糖化醗酵中の甘酒状態のもので、栄養価に優れ「飲む点滴」とも言われています。
お酒には、何かしら皆んなの心を一つにする力がある事を感じ、御神酒造りの提案をさせて頂いたのですが、何と、日本、中国、台湾、タイ王国からの真学校生ほぼ全員の参加があり、この世界を元気にするカタカムナのウタヒを響かせながら、粛々と取り行うことが出来ました ♪

カタカムナ第63首を響かせながら御神酒を仕込む
カタカムナ第63首を響かせながら御神酒を仕込む

「固めの盃を交わす」と言う言葉がありますね。意味は、人と人との結びつきや約束事を確かにするために盃を取り交わして酒を飲む事とあります。目には見えない心のつながりをこうして紡いでいくのですね。又、御神酒は、神への捧げものであると同時に、身を清め神との一体感を高めるための飲み物でもあります。つまり、心を綺麗にしていく事が大切だと言うことですね。

お酒を造ることを「かむ(噛む)」と言います。
「かむ」→「かむす」→「かもす(醸す)」
「口噛みで酒をかむす」「酒を醸す」

日本列島での米の口噛み酒は、縄文時代後期以降であると考えられており、米などの穀物や芋、木ノ実などを口に入れて噛み、それを吐きだして溜めたものを放置して造るお酒のことを言います。大和(古代日本)や台湾では口噛み酒は神事の際にも造られており、原料を口で噛む人間として巫女や処女が選ばれていたと言います。中国ではこれを「米寄(ミィーチー)」と言ったそうです。
ちなみに、口を噛み噛みして動いたところを「こめかみ」と言うのですから、日本語に秘められている意味を知ると実に道理にかなっており面白いですね ♪

by やすえどん

 

天気が良かったので、御神酒を仕込む「本宅」まで歩いて行きました
天気が良かったので、御神酒を仕込む「本宅」まで歩いて行きました

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本宅の釜戸小屋にて、まずは「四拍手」で場を清めます
本宅の釜戸小屋にて、まずは「四拍手」で場を清めます

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富士浅間木の花祭りで世界中から届いた清水を注いでいきます
富士浅間木の花祭りに寄せられた世界中の清水と浅間大社の清水を注ぎます

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糀の投入
糀の投入

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今回の御神酒は黒米を使用
今回の御神酒は黒米を使用
一段落したところで、先に仕込んでおいた御神酒の試飲
一段落したところで、先に仕込んでおいた御神酒の試飲
カンパーイ♪
カンパーイ!
楽しかったね♪
楽しかったね♪

 


世界に新しい価値観をもたらすには まず自分を解放してあげなさい

今日の午前中は「人格を学ぶ講座・序章」の予定でしたが、まずは昨日終わることができなかった「カタカムナ2」のプレゼンテーションを終わらせ、それから「人格を学ぶ講座」に入ろうということになりました。ところが、話が深まる深まる。やっぱりカタカムナは終わらず、「人格を学ぶ講座」は次へと持ち越しになりました。その場の流れに沿いながら、行き先は天任せ。真学校のプログラムは常に流動的なのです。
さて、カタカムナの「ミノナライ」の解説中、「考える」ということについてこんな話がありました。

「ミノナライ」について語るいさどん
「ミノナライ」について語るいさどん

いさどん:
昨日、大人ミーティングでメンバーのじゅんぞうくんが僕に質問をしました。それに対して、僕は答えを言いませんでした。なぜなら、僕がすべてを答えてしまうと、じゅんぞうくんはその内容を覚え、それを手法として自分に取り入れようとするからです。そうすると、じゅんぞうくんはいさどんを先生にして、いさどんから正解をもらって、それをやっていればいいというだけの人になります。だから僕は彼の質問に答えませんでした。それによって彼には、考える機会が与えられました。考えることが大事なのです。

「カンガエル」をカタカムナでひも解いて観ましょう。
「カ」は宇宙の最極小微粒子。「ン」はそれを強める働きをします。そして「ガ」は「カ」に濁点が付いて濁ったもの ―――「我」です。「エ」は発生、「ル」は行為の継続を表します。つまり、「カンガエル」とは、新鮮な「カ」がどんどん湧き出してくることであり、それを「我」によって引き出そうとする力が発生するということです。
だからじゅんぞうくんに正解を与えてはいけないのです。彼が自分で考えて、引き出す。

なおやくん:
じゃあ、僕は昨日その後にじゅんぞうくんの質問に答えてしまったけど、あれではいけなかったんですね。

いさどん:
本当はよくないですが、答えを持っている人は言いたくなるものです。しかしその言いたくなる気持ちは、相手のためというより、「自分は答えを持っているぞ」ということが言いたいのです。相手のためなら、答えは言わないことです。そうすれば、彼は自分で道を切り開く人になります。
僕が皆さんに語ることは、「これが正しい」とか「これは間違っている」ということではありません。そういったものをすべて情報として提供し、それによって皆さん一人ひとりが自分の位置を知るということです。あなたは今、どこにいるのか。そして、その位置でいいのか。今の自分の位置が見えたなら、そこからどこを目指すのかは、あなた自身が考えるのです。僕がやっているのは、そういうことです。

人間は、自分の考えや経験を良いものにしたがります。それは、自分のやっていることは良いことであるとして自分の枠の中に収めることですから、それ以上成長しません。その枠を壊さなければ、人間は進歩しないのです。
「納得する」には2種類あります。一つは、自分の理解できる枠の中に収める納得。もうひとつは、「自分にわからないこともあるのだ」という、未知なるものを許容する納得。未知なるものを許していくと、自分は広がっていきます。しかし、枠の中にはめようとして収まらないから「納得できない」とするのは、その枠の中に自分を閉じ込めることになります。自分を広げようと思うなら、未知なるものに心を開いていくことです。

人間は考える生き物です。大切なのは、どちらの方向に考えるかということです。自分の考えに囚われる方向に考えるのか、自分の考えから自分を解放して、自由になる方向に考えるのか。

みかこ:
「カンガエル」とは、「ガ=我」「エ=発生」「ル=継続」ですから、「我」が発生し続けることであるとも言えます。「ガ」の濁点(=濁り)を取って「カンカエル」なら、濁りも歪みもない純粋なエネルギーである「カ」が発生し続けるということですから、これは美しい思考だとも言えますね。

しずかちゃん:
では先ほど言っていたのは、「カンガエル」ではなく「カンカエル」をしなさいということですか?

いさどん:
違います。それでは「ガ」が悪くて「カ」が良いという話になってしまいますが、私たちは我の世界に生きています。この世界は我の世界です。ですから、「ガ」が悪いということではなく、「カンガエル」の方向性が大事なのです。自分を高めて優れたものにしたり、汚れを取って美しくする方向へ考えるのか、それとも自分に囚われて損得勘定に走って、さらに自分を汚していくような方向に考えるのか。おなじ「カンガエル」でも方向が違います。そのことを知ることが大事なのです。
本当は、「カンカエル」であるべきです。しかしそうは言っても、私たちの思考は「カンガエル」なのです。なおやくんがなおやくんであるように、しずかちゃんがしずかちゃんであるように、誰もが自分という我を持っています。そこでその「ガ」が、どちらの方向に向いているか、ということなのです。

みかこ:
大事なのは、性質を知ることです。現象界から濁りを取ることはできない。そもそもの存在が、濁りや歪みから発生しているのだから。

イメージキャラクター「カンガエル」くん
イメージキャラクター「カンガエル」くん

いさどん:
今一度振り返って、皆さんにお話ししたいと思います。
真学校が始まったばかりの頃に、私たちは自我を持っています、ということをお話ししました。自我を持っている人は、自我の欲望を満たすことを幸せに感じます。そして自我の中には過去の経験や知識があり、それを正しいものとしたがります。そうすることで、人間は「これでいいのだ」という自信を持って生きていくことができるからです。それが人間を幸せに導いたり、正しいとされていた時代がありました。
しかし、それは自分という枠の中の価値観から観た満足の世界です。その状態では、その人は枠の中だけでしか思考していませんから、実はその枠の中に閉じ込められた不自由な状態です。矛盾しているでしょう?自分を不自由にすることが幸せだと思っているのです。

そこで、自分の考えを、たくさんある考えの中のひとつだとしておきましょう。ものごとの捉え方は人によって様々であり、自分の考えは全体の中の一つなのだと捉えた時に、自分の自我から離れた目線が持てるのです。それが客観性です。

簡単に言うと、自分を壊せということです。
もっと極端な言い方をすると、自分を否定しなさい、ということです。

自分を否定したら、何を元に考えればいいのでしょう?
今与えられた出来事や情報を、常に新鮮に自分の中に入れていきなさい。そうすると、常に新鮮な情報が自由に入ってきます。それを、過去や経験に囚われない今の自分の視点で観て、必要なものを選んでいきなさい。そうすると、現在の自分はそこに在りますが、それは常に変わり続ける自分です。これを自由と言います。

そう聞いても、人間にはそれぞれクセがあり、なかなか離れることができません。それは、これまでそういった考え方が主流となって世界が動いてきたからです。時代を観ても、国を見ても、政治や社会の在り方を観ても、すべてそうです。それが今、行き詰まりを迎えています。

私たちは、自分の自我を壊すことはなかなかできませんが、何か外の世界に疑問を感じて、今ここに集っています。新しい世界を観ようとしています。同時に、この社会に新しい価値観をもたらそうとしています。それができる人になるためには、まず、自分を解放してあげることです。

あなたが自分の中に「これが絶対に正しい」というものを持っていれば、それは他の人の「正しい」と対立することになります。あなたがどんなに優れていても、それが正しいと主張したら、自我に汚染されていることになります。それは、その「正しい」を理解できない自我を持っていると人との、対立を生むだけです。私たちは、自分の視点に囚われずに、情報として自分の視点を伝えあい、共有していく。そのことが大切なのです。

知意行一体の段階で、私たちにはもう一つコミュニケーションを取る場所があります。
私たちは、人間社会や自然と接し、感じて、いろいろなことを考えたり発信したりします。それは客観視点で捉えることができるものです。今までお話ししてきたのは、客観視点についてです。

そこでもう一つ、私たちにはどうすることもできない、見えない、捉えられない世界がありますね。宇宙です。宇宙が存在するから、この地球があって、人間社会があって、私たちがいるのです。そうすると、まず自分という主観があり、そしてこの世界や地球という客観があり、さらにその奥に、宇宙という「客観背後」があります。その客観背後の意志を感じ取るのです。

私たちは自分の人生を生きるものでもありますが、地球人でもあります。そして太陽系を構成するものでもあります。銀河を構成するものでもあれば、この全宇宙の意志と共に、宇宙を生きているものでもあります。

これまで人類は、20世紀までの時代を歩んできました。それは否定するものではありません。しかしそれは、私たちが歩んできた階段の、20世紀という段にしかすぎません。私たちは今、21世紀という段階に足をかけました。そしてこれからずっと先へと、その階段を昇っていくのです。もう、これまでの手法は変わらなければいけないのです。

 


「これ以上、皆さんを前に進めさせません」~ 2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

始まりました!1ヶ月間の真学校2018!

今回は、参加お申し込みが定員に達し受け付けを締め切った後にも「どうしても受講したい」というお申し込みがあり、最終的に16名が参加することになりました。16名中、日本人は4人。その他に、中国、台湾、香港、そしてタイと、アジア各地からの参加者がそろいました。21世紀は東洋の時代と言われますが、さて、どんな1ヶ月間となることでしょう!?

アジア各地から集った多彩な受講生たち
アジア各地から集った多彩な受講生たち

多彩な参加者に合わせ、プログラムも初の日・中・英3ヶ国語での提供となります。中国語の通訳は、中国人のしずかちゃんと、台湾人のなおやくんが、なんと1ヶ月間ボランティアで引き受けてくれることになりました。

「地球サポーター」を自認するしずかちゃん
「地球サポーター」を自認するしずかちゃん
ユーモアあふれる通訳で場を明るくしてくれるなおやくん
ユーモアあふれる通訳でみんなを和ませるなおやくん

真学校後半には、さらに二人のボランティア通訳さんが応援に駆けつけてくれます。その他にも、講座の資料などの膨大な量の翻訳を、国内外のたくさんの友人たちが引き受けてくれました。真学校で提供される世界観に共鳴するたくさんの人々のサポートによって、初めての3ヶ国語での講座提供が可能になったのでした。

受講生たちの参加理由は様々です。
「愛を学びたい」「新たな視点を得たい」「突破口を開きたい。一時的なものではなく、常に突破し続けるための動力源を得たい」「目覚めて、それをどう行動に現していくか」「良い生活とは何かを学び、調和のとれたコミュニティを築く」「心の重荷を手放したい」 ────
理由はそれぞれですが、現状を突破し、新しい世界に出会おうとしている意欲と探究心の強さは、不思議と一致しています。

中には、「いさどんの考えを知りたい」という受講生も。それを聞いたいさどんは、こう言いました。「僕の話していることは、僕の考えではありませんよ。僕は天のスピーカーです。そしてそこは、誰もがアクセスできるのです。」

以下、開講にあたってのいさどんの挨拶をご紹介します!

 

「これ以上、皆さんを前に進めさせません」
2018年1ヶ月間の真学校 開講の挨拶

私たちが毎日を生きると、いろいろな出来事に出会います。そして誰もが、一人ひとりオリジナルの人生を生きています。そしてその一人ひとりのオリジナルの人生は、この巨大な宇宙の中の出来事としてあるということが事実です。
毎日をどのような意識で生きるのか。それはそのまま、その人の人生に反映されます。それは宇宙の法則です。小さく、暗く、狭い意識の世界で生きることも、宇宙の現象のひとつです。広い視点を持ち、高く、明るく生きるのも、宇宙の中のひとつです。

人類が地球上に誕生してから、400万年が経ったと言います。その人類は今、地球上にこのような文明をつくっています。今の時代を良い時代と捉えるか、混乱して不幸な時代と捉えるかは、一人ひとりがこの世界をどう見ているかによって変わります。間違いないのは、今の社会をつくっている、その一人が自分だということです。
ある捉え方からすると、人間の営みは、この地球上の自然の仕組みを逸脱し、環境破壊などの様々な問題を引き起こしているとも言えます。しかし人間には、豊かで愛のあるとても素晴らしい世界を創る能力もあるのです。
皆さんは、いろいろな理由があってここに参加しました。そしてそのいろいろな理由が、今のこの地球上の社会をつくっています。そう捉えると、時代は私たちに、もうそろそろ生き方の方向を変えなさい、と言っているような気がしませんか。そして人間の生き方の方向が変わること ─────
それが、皆さん一人ひとりの人生が花開くことになるのです。

皆さんが幸せであることと、この世界に存在する人間以外の生き物が幸せであること、そして地球が健康であることは、一緒でなくてはなりません。さて、それではどう生きていったら、皆さんの心は晴れるのでしょう。一人ひとりがどう生きたかの結果が、地球の未来に現れてきます。
私たちは年齢も経歴も様々です。でもみんな一緒です。どういう意味かというと、「この時代を生きている」ということです。
皆さんは、この時代をどう生きて、どのように自らに価値をもたらすのか。一人ひとりがオリジナルですから、一人ひとり道は違いますが、この時代をどうするかということについては、私たちはひとつの答えを出すべきだと思うのです。

僕の目には、ある映像が浮かんでいます。ちょっと、今から小さな劇をしますね。

(そう言っていさどんは、後ろにあるドアの奥に隠れました。少し間をあけてドアから出てきたいさどんは、みんなの前に立ち、一人ひとりの顔を見渡した後、両手をガバッと大きく広げ、こう言いました。)

これ以上、行かせない。

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これ以上、皆さんを前に進めさせません。
これまでのような20世紀型の人間のわがままを、地球上にこれ以上広げない。

21世紀から30世紀にかけての人類の、優れた、尊い考えを持ち、地球上に生きていってもらいたい。そのように生きたならば、皆さん一人ひとりは尊い存在です。私たちはこの地球という星で、たくさんの生命と共に暮らしています。地球コミュニティとして、一緒に宇宙を旅しているのです。

すべてが家族です。宇宙には、天体という家族がいます。人類に、これ以上地球でわがままをすることを許しません!そうすれば、人間は地球のガン細胞ではなく、真に尊きものとして、共に宇宙を創造していく存在となることでしょう。

そんなことを、皆さんと一緒に1ヶ月間学んでいきたいと思います。

 

夜のウェルカムコンサートは大盛り上がり!新しい世界に出会う1ヶ月間の始まりです。
夜のウェルカムコンサートは大盛り上がり!新しい世界に出会う1ヶ月間の始まりです♪

 


27日目午前「心豊かに生きる」〜 1ヶ月間の真学校・最後の講座

毎日毎日新たな一日を迎え、日々変化し続けて、気が付けばあっという間の1ヶ月間。最後の講座で、いさどんは以下のように語りました。

 

心豊かに生きる
〜 すべてはあなたの手の中にある 〜

いさどん:
おはようございます。

今日は最後の講座です。真学校が終わったからといって、地球の回転が止まるわけではありません。なぜこの世界で、人は場所を特定して、そこにがんじがらめになっているのでしょう。僕にはそういう不自由感がいつもあります。

不自由というのは、人それぞれ持っています。なぜ毎日眠らなければいけないのか。昔、忙しく働いていた頃には、寝溜めができればいいなと思っていました。寝ている暇がない時には、例えば3日間起き続けて、その後3日間眠ればいいということができたら、その方が効率がいいでしょう?でも、そんなことはできません。

我々は生命として、お母さんの胎内で細胞分裂を始めます。最初に心臓ができて、その心臓が動き出して、最後には心停止になります。これが死です。その間、心臓が休むことはありますか?ないですね。休むということは、命が終わるということです。
私たちの命は、心臓と連動しています。「心臓」というように、「心」という字が使われているのがおもしろいですね。英語でも心臓は「Heart(心)」と言いますね。オランダ語はどうですか?

ニナ:
オランダ語でも、心臓という言葉には「心」という意味があります。

いさどん:
同じですね。共通しているということは、言葉が違っても人間の体の仕組みが同じだということを表しています。
私たちは心臓と共にあります。その心臓は、休むことがありません。私たちは例えば、疲れたら寝て休むこともありますし、例えば仕事でストレスが溜まったら美味しいものを食べるとか、好きなことをやるなど、目の前にあることから自分を遠ざけるという休み方もあります。ストレスが溜まるということは負荷がかかっているということですから、それを解消しなさいという指令が出ているのです。
呼吸はどうでしょう。僕が昔お風呂でいったいどのくらい呼吸を止められるだろうかと試していた時には、3分くらいでした。世界記録は6分ほどでしょうか。普通の人がいきなり始めたら、30秒で苦しくなるでしょう。いずれにしても、空気との循環は拒否することはできません。

僕は変な人ですから、それを不自由だと思っていました。呼吸を止められないなんて、まるで強制されているみたいで不自由じゃないかと思い、それじゃあ止めてみようと試していました。でもどんなに努力しても、たったの3分なのです。
生きているということは、不自由です。心臓がかわいそうだから休ませてあげたい、呼吸を好きなようにさせてあげたい、と思っても、特定のリズムから外れることはできません。眠ることをコントロールすることもできません。ではこの不自由感から解放されたいと思ったら、どうしたら達成できると思いますか?

ニナ:
死ぬこと。

いさどん:
そう。死ぬことです。僕はこう考えました。今自分が不自由なのは、この肉体の中に入っているからだ。そう感じた時点で、自分とこの体は別物なんです。もっと自由であっていい。でも現実には、この体と心の状態で自分は成立しています。

僕は30歳の12月26日から、天から思考が降りてくるようになりました。
19歳の時に、亡くなったおばあさんが僕の頭上に表れて、僕を守護するようになりました。そのおばあさんが、僕が30歳の時に、男の人に代わったのです。それがお釈迦様でした。(お釈迦様といさどんの物語については、いさどんブログ「木の花記~金神様の巻」をご覧ください。)お釈迦様が現れて1年ほど経った時に、「1000日の行をいたせ」という命が降りてきました。それが何なのかわからないので、毎日瞑想をすることにしました。1日も欠かしたことはありませんでした。どんなに忙しい時でも、当時は建築業をやっていて現場から帰れないような時もありましたが、そんな時でも埃だらけの現場の片隅で瞑想をしました。
そうしたら、瞑想を始めて1年ほど経った頃から、幽体離脱をするようになりました。部屋の角に自分が浮かんでいて、瞑想している自分を見ている。そんなことが起きるようになったのです。ある時、僕はお釈迦様に「私とあなたの関係はいったいどのようなものなのでしょうか」と聞きました。お釈迦様から道をいただくようになったばかりのころ、僕は本当に普通の人で、お釈迦様は「始めはそなたは私の赤子のようであった」と言いました。そして続けてこう言いました。「やがてそなたは、私の子どもとなった。そして弟子となった。そして今、そなたは自らを離れて自らを観るようになった。その目線は私と同じである。だからそなたは私の兄弟である。」
その状態になってから、僕は物事を観る時にお釈迦様に頼るのではなく、自ら判断をするようになりました。客観視点を持ったということです。

なぜこんな話をしたのかというと、「不自由だ」という想いが湧いたことにつながります。この枠はいったい何なんだろうと。その後、瞑想中に自分の体を抜け出して、地球からも飛び出して、宇宙から地球を観るという体験をしました。そして人間の行いによって蝕まれた部分がケロイドのように広がっている地球の姿を観て、このために生きなければいけない、と思いました。
肉体を持ったこの状態で生きるということは、様々な不自由があります。肉体の中に自らが封印されているということでもあり、縁があってこの形をとっていかなければいけないということです。
ここで皆さんに質問ですが、日ごろどんなことを「不自由」と感じますか?

めぐちゃん:
やりたいことがあるのに、おなかがすいてしまうとか。

いさどん:
それはありますね。やりたいことがあるのに、おなかがすいてご飯を食べなくちゃいけない。

めぐちゃん:
夜中に寒くてずっとお布団に入っていたいのに、なぜかトイレに行かなくちゃいけないとか。

いさどん:
それは不自由だよね。その場でできたらどんなにいいだろうね(笑)。

オレンジ:
動物は人間より自由。人間は植物より自由。植物は微生物より自由。

いさどん:
じゃあ植物は「僕はもう10年もここに立っていて不自由だな~」と思ってると思う?それは人間が「ずっとあそこに立っていてかわいそうだな」と思うからじゃない?僕は植物を観ていて、その場で自由に育っていると感じるよ。観ていて「嫌だ嫌だ」と植物が思っているような感じがしない。寝る時に布団を敷く必要もないし、冬になったからといって服を着る必要もない。あなた自身が不自由だと感じることはないの?

けいご:
朝起きなきゃいけないこと。

いさどん:
それは共通してるね。

けいご:
後は、恐れを感じる時。

いさどん:
それは恐れから解放されたいということ?それはいつでもできるよ。あなたが勝手に恐れを感じているだけだよ。
不自由というのは、自分の想いに対して、そうじゃない方へ何かが強制していると感じた時に不自由と感じるんだよ。けいごくんの「恐れ」というのは自分自身が創っているものだから、いつでも手放せるんだよ。それは不自由とは言わず、自業自得と言います。

みかこ:
でも私も、けいごと同じように思うことがあるよ。さっきいさどんがお釈迦様に、そなたが大人になったのは自らを離れて自らを観るようになったからだと言われたと言っていたけれど、それができない人にとっては自分の中に湧いてくる想いの出所がわからないから、自動的に湧いてくるものに翻弄されているようで不自由に感じるんだよ。

いさどん:
でも、自らに起因していることは自らの自由の範疇にあるわけだから、それはコントロールできるんだよ。今僕が話している不自由とは、外から来るもののことです。
僕は「肉体」というスーツを着て、その中から外を見ている感があります。そして肌に気圧を感じて、それがとても不自由です。幽体離脱をした時には、このスーツの外から自分を観ていました。宇宙空間に出て、月を背にして地球を観た時には、地球の現状に驚くと同時に、外圧も内圧もない状態を体験し、これが自由なのだと感じました。宇宙飛行士の体験する無重力状態は偽物ですね。本当の無重力とは、肉体から解放された時にあるのです。つまり、本当の自由とは、肉体を返上して初めて感じられるということです。

あっこちゃん:
自分の中にイメージがあるんだけど、その通りに絵が描けないと不自由を感じたりする。でも習熟していくと、自由になっていくのかな。

いさどん:
上手か下手かというのは天性のものもあるよね。だけど描きたいと思ったらいつでも描くことはできるよ。天性のものはどうしようもないかもしれないけど、「こういう風に描きたい」という自分の願望が叶わないことに対して不自由を感じているということならば、その願望を手放せば不自由は消えるよ。
例えば心臓を休ませたいと思っても休ませられないとか、眠りたくないと思っても眠らなければならないという種類の不自由と、やろうとすればできるのにやらずにいて不自由だと感じるのは、種類が違うよね。そこをきちんと仕分けていかないと、できることなのに不自由を感じていることになる。

あっこちゃん:
確かに、身体的な不自由と思うように絵が描けない不自由は全然別のものだと今思いました。

いさどん:
それは大発見だね。不自由にはランクがある。もしくは、2種類だけかもしれない。自分の心のクセによって不自由を感じるものと、この世界の奥にある法則に対して自分がどうすることもできずに不自由を感じるのとでは、まったく種類が違うのです。

ニナ:
みんなの話をとても興味深く聞いていました。私は不自由の中にもいかに自由を見つけてその折り合いをつけていくかということをしています。

いさどん:
ではあまり日常の中で不自由を感じていないということ?

ニナ:
そうですね。

いさどん:
そういう答えが返ってくるだろうと思いました。というのは、あなたからは不自由の波動を感じないからです。けいごくんの場合は、自業自得型の不自由の波動です。オレンジくんなら勝手気ままで奇想天外。あっこちゃんのは自滅型の不自由の波動だね。
自分がどんなことに不自由を感じているかが、自分自身を表しています。多くの人はそんな見方はしません。僕の場合は、生きていることそのものに不自由を感じています。だから早く死にたいです。でも、普通の人の死にたいとはちょっと違いますよ。僕には肉体を持たない存在としてのビジョンがあり、意識がそちらへ向いているのです。だから肉体を持つと不自由を感じるのです。

めぐちゃん:
いさどんのような思考ができるのは、いさどんの中のスピリットと肉体が完全に分離されて認識されているからだけど、一般の人はその見分けがついていないから死を恐れるんですよね。

いさどん:
僕は時々柔軟体操をしますけど、その時の感覚は「この部品が錆び付いてきてしょうがないから整備しよう」という感覚です。機械の錆をとって油をさして使い勝手をよくするようなものですね。

お釈迦様に私とあなたの関係はどのようなものですかと問うた時に、始めはそなたは赤子のようであったと言われましたね。その時に、お釈迦様はこんなことも言っていました。天に向かってはいくら泣きわめいて赤子のようであっても良い。しかし横に向かって、つまり人間に向かって赤子のようでは駄目だぞ、と。そうすれば、人は育つ。そして己を離れて己を観るようになった時に、そなたは私の兄弟である、と言われた。

みかこ:
面白い話だね。己を離れて己を観るということは、天の視点を持ったということでしょう?1ヶ月間の真学校でやっていることは、誰もが幽体離脱をしなくても天の視点を持つことができるというトレーニングなんだよ。

いさどん:
なぜだかわからないけれど、我々は枠の中に入っています。生命であるということも枠の中にいることですし、人間であるということも枠の中のことです。僕の言う不自由感とは、形の世界にいる生命の不自由感です。それから解放されたいということは、形のない世界、例えば神々の世界のようであれば自由ですよね。そのさらに奥の潜象界まで行ってしまうと、何もなくなって自我も何もないわけですから、それでは元も子もないので、とりえずは自我があって肉体から解放されている状態のことをここでは言っています。

自我や自由とは、その人の目線によって変わります。いさどんの不自由感はユニークですね。皆さん一人ひとりの捉えている自由も、それぞれに個性的です。一人ひとりの心の性質によって、あんなのは嫌だという人もいれば、それがいいという人もいる。自分自身の心の性質に気付けば、それをエンジョイすることができます。エンジョイできるくらいに理解できれば、変えることもできる。もしかすると、変える必要はないのかもしれない。ただ、「使い方を間違えるな」ということです。不自由を感じて不平不満を言うのではなく、使い方を正しくすればどんなこともエンジョイできるということかもしれません。

僕は世の中をずっと眺めていて、いつも人間の在り様を観察しています。これまで1万人以上の人々の面談をしてきました。そこから観えてくるのは、現代の人間模様です。ご機嫌に生きている人たちとも出会いますが、そういう人と面談をすることはありません。面談をするのは、自分を不幸だと思っているような、行き詰っている人たちです。
そんな中で今の時代の心模様を観てきた時に、一人ひとりに心の性質があり、その性質がその人の不自由感を創っているということが観えてきました。真学校では、自分自身が何者であり、どういったプロセスの延長線上に今の形状をしていて、どのように不満を抱えているのか、ということを客観的に捉えていきます。それが嫌だと言っても、寿命がある限りその形状でいくのです。実は、今回の寿命が尽きたとしてもさらにその先があるのですよ。死んでも自分は成立しているということです。そうしたら、どのように自分を誘導していったら、心豊かに生きられるのでしょうか。それは、「はい、あなたはこうしてください」というマニュアルがあるのではなく、自分で人生の操縦かんをつかんで、旅するのです。その人生の操縦かんをつかんで自由に操るためのツールを、1ヶ月間の間解説してきました。

この世界に生きるとは、この世界の奥にある意志との対話です。そこから遠くなると、我々は迷子になります。迷子だからこそ怯え、それによって不平不満を言う。それが人生です。
よく様々な宗教で、「祈ることです」と言いますね。それでは怪しいな、と僕は思います。なぜなら、どういう精神で祈るかによってものごとはまったく変わってくるからです。ああなってほしいこうなってほしいという自らの欲望であったり、あいつは絶対に許さないという呪いの心で祈ることもあるでしょう。祈りにも質があるのですよ。
我々は、この世界との契約の元に生きています。そして宇宙人であり、宇宙の旅人です。我々の旅路は、現象世界の奥にある客観背後の意志と契約をしているのです。その契約から逸脱すると、我々は迷うことになります。どこに向かうのかという約束の元に進めば、出会うことのすべてを「こういうことだな」「こういうことだな」と受け止めながら進んでいくことができるのです。

「祈り」について考えた時に、これが出てきました。
(ここで「祈りの言葉」がシェアされました。)

 


祈りの言葉 

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を

アーメン、合掌

 

*「祈りの言葉」の詳しい解説については、こちらの記事をご覧ください。

 


 

いさどん:
今日は「心豊かに生きる」というテーマで、1ヶ月間の真学校の最後の講座です。この1ヶ月間話されてきたことは、見方によっては極めてマニアックな世界にも見えるかもしれません。でも、それに触れながら、皆さんの中に
この世界は過去からずっと続いて来て、今現在も宇宙全体が同じ仕組みの元に運営されています。そこに矛盾が発生すればそれにふさわしい現象が起きて、私たちに教えてくれるのです。目を開けてよーく観れば、それが観えます。目というのはこの肉体の目ではなく、霊的な目です。その目をつぶっていたら、愚痴になったり怒りになったり、それが束になると争いになります。一人ひとりがオリジナルなセンサー、オリジナルな目を持っています。その持ち方を間違えると、恐怖になったり怒りになったりうつ病になったりするのです。

「祈りの言葉」に「あなたの御心のままに」とあるように、私たちはそれに沿い、宇宙創造の側に立ち、今現在も生きているということは、神様と共に宇宙創造を果たしているのです。お釈迦様の言われたように、この無限なる世界と自分自身が一体であると思った時、自らの魂は宇宙最極小微粒子の「カ」となって、宇宙へ広がっていくのですよ。それがニルヴァーナであり、最終到達地点です。つまり、神様は人間を自分から遠いところへ置いて、人間がいろいろなことを経験しながら光へ向かっていくと、とうとう最後には一緒になるのです。ああ、ここがふるさとだった、と。でもそうなると、神様はまた宇宙を創るために人間を遠いところへ置くでしょう。我々は何度も何度もそれをくり返しながらどこかにその記憶を持っていますが、その途中の段階では愚かしいこともくり返して進んでいくのであり、それは諸行無常です。
諸行とは世の中のことです。無常とは、捉え方によってものごとはいかようにも変化するということです。自分がどの意識レベルで反応しているのか。それによってこの世界に種を播きながら、自業自得の現象に出会っているのです。あなたが出会っているものはあなたの目が見ているのですから、目が変われば違うものが観えるよ、ということです。

「心豊かに生きる」とは、すべてが自らの手の中にあるということです。もしも今まで不満を抱えて生きてきたとしたら、これからもそれを抱えて生きていきますか?

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いさどん:
これは極めて画期的な話です。過去には人々の幸福というのは、民衆を統治する王の力の元にありました。またある時には、聖者の教えの元にありました。それは、人々の手の中になかったのです。それは経典や聖者や権力者の手の内にありました。
しかし今、時代は、私たち誰もがその目を持って目覚め、誰もが高次の存在として生きられる時代になりました。だからこそ、今この話が語られているのです。
僕は教祖ではありません。王でもありません。その情報を提供する人です。その元は、この「祈りの言葉」の中の「あなた」という無限なる存在です。その存在がこの世界を創り、散りばめて、我々を配置しました。その配置されたものはすべて私であるぞ、ということです。

皆さんは1ヶ月間の真学校を受講するにあたり、一人ひとりの心の状態に応じてそれぞれの目的を持って参加しました。ここで皆さんが得たものは、自分の欲でそれを活かしたいといったものではなく、この世界とは何であるのかということを、これまで持ったことのなかった視点から分析するということです。自らの欲望を超えたところからそれを分析するということは、自我を超えた目線に出会ったということです。明らかに、真学校に参加する前と後では、視点が変わっているでしょう。

めぐちゃん:
ここに来る前は、真学校終了後の進路は何も決めずに、終了時の自分の心情に従って次の一歩を歩み出そうという想いで参加しました。やってみた結果、すごく毎日が楽しくてたまらなくて、自分の中で封印して用無しになっていたいろいろなものが湧き出してきて、今は「ここからだな」と感じています。家に戻って、ここで得た視点をこれからどう活かしていくのか、それを冷静に観ていくことが当面の課題だと思っています。今の正直な気持ちは、もう家は引き払って早く戻って来たいです(笑)。
木の花ファミリーというコミュニティは、人類をひとつの生命体としたら、そのひとつの成長点の先端にある部分で、現象化のスピードがものすごく速い。植物でも何でも、芽が出て成長していく時にその成長点というのは一番細胞の入れ替わりが激しい。その先端部分がまさに木の花ファミリーというコミュニティなんだと思います。
私もある意味欲のある人間で、昔から「ものごとの最先端にいたい」という欲がありました。大企業に勤めて最先端の研究に携わって、でも自分の中にそこに完全に合致できるものがなくて挫折して離れたんですけど、その後も最先端の技術を扱う仕事をして、だけど結局は従来型の価値観で損得や利害に縛られて、重くなって辞めました。でも本当の先端はここ。そこに出会えた喜びが、私の中にはすごくあります。

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いさどん:
いずれはこれが先端ではなく当たり前になる時代が来るでしょう。今は質的転換の時だからこそ芽になっていますが、それが当たり前の世界を目指しています。そのさらに先は考えなくていいですね(笑)。

よしこちゃん:
私は去年の3月21日に始めて木の花ファミリーに来て、それからここに通うようになる中で真学校の存在を知り、真学校を受講することがある意味この1年間の終着点となり、そこから次に向かうための何かが観えるかもしれないと思って受講を決めました。仕事も辞めて宙ぶらりんなわりには毎日心穏やかで、「ここに何かがあるだろう」と思いながら過ごし、次はどんな展開になるのかな~と思っていたら、途中で「自己実現」というのが自分にとってのパラダイムだったんだという気付きがありました。そうしたら、それまで自分を縛っていたくびきがなくなった。そして、これからの人生のために何かを探そうというよりは、今ここに在るものがそれなんだと思うようになったんです。

いさどん:
それこそ「あなたの御心のままに」ということだね。

よしこちゃん:
その通りです。だけど今までは、その「あなたの御心」とは何なのかを探そうとしていたんですよ。あなたの御心に沿うとはどういう生き方なんだろう?とかね。

いさどん:
おもしろいね。そこに目覚めると、心が自由を得られます。そうすると、自然とある特定のところに向かうようになります。つまり、自由に目覚めれば目覚めるほど、人は狭い道に行くのですよ。他に道はないことが観えてくるから。そこが面白いところですね。

よしこちゃん:
自分で選ぼうとしていた時にはそれは見つからなかったけれど、そういう自分の想いを手放したら、「ここ以外にない」という道が観えてきた。それはもう自分が探さなくても「ここにありますね」という感じです。

いさどん:
そういう時に何と言うのかといったら、「おめでとうございます」と言うんですよ。

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あっこちゃん:
私は真学校に参加する前は、すごく行きたいなという気持ちと、何に迷っているのかわからないけれど迷う気持ちがあって、ぎりぎりまで決断できずにいました。だけど参加したら、何で迷ってたんだろうというぐらいに、自分が求めていたものがバーンとそこにあった。
いさどんが、山の頂上に立つと目の下に雲海が見えると語った話が印象に残っています。外から聞いた話や人との出会いの中でそうだなと思うことがあっても、いったん雲の下のもやの中に沈んでいくような感じがするんです。そのもやがどこから来るのかはいろんな理由があると思うんですけど、それをこれから探っていきます。

いさどん:
富士山は雲海の上に頭を出していて、その下は曇って見えませんね。それはそれで、上から見るときれいなんですよ。でもその下はどしゃ降りだったり、霧だったりします。

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あっこちゃんはその雲海の上の目を持っているのに、どしゃ降りや曇りも上から観れば美しく観えるのに、なぜかその雲の中にいようとする。ただ上へ登っておいでよ、という話ですが、そこに介入はしません。それはあなたを尊重しているから。そこがよければそこにいればいいんです。ただ、あっこちゃんはその上があることを知ってしまったからね。そこでどう生きるのかは、あなたの意志です。

ニナ:
私はもっと学びたいと思い、とてもオープンな気持ちで真学校に参加しました。そして本当にたくさんのことを学びました。

いさどん:
あなたにとって一番大きかったのは、自分というものを確認できたことではないですか?

ニナ:
その通りです。オランダに帰ってからが興味深いですね。未来が楽しみです。ただ、カタカムナ研究会に参加できないことが残念ですね(笑)。

いさどん:
こちらから情報を送りましょう。あなたは研究目的で真学校に参加しましたが、言葉や文化の違いを超えてこんなにも自然に溶け込み、こんなにも安定したスタンスを保ち続ける人も珍しいですね。それが質的転換が常に起こり続ける宇宙の実相そのものの「ニナ」という魂なのでしょう。僕から伝えたいことは、ぜひそのまま客観的な情報を世の中に発信していってほしいということです。

ニナ:
これから先の数ヶ月間で、それを実践します。

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いさどん:
1ヶ月間は長いと思っていましたが、とうとう終わりを迎えました。終わりというのは、始まりということです。毎日が終わりであり、毎日が始まりであるということをくり返しながら、こういった節目を迎えて人生を刻んでいくのです。節がないものは、弱いですよ。節があるということは、竹のように柔軟だということでもあります。
皆さんの人生に介入はしません。この1ヶ月間を経て、それぞれの人生を、それぞれの個性のように歩んでいってください。その時に、できれば、安穏で幸せな人生を送ってもらいたい。そう願っています。

良い出会いを、ありがとうございます。

 


 

その夜、受講生主催の修了パーティーがありました。

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昨年の受講生も飛び入り参加で、「贈る言葉」をプレゼント。
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1ヶ月間ありがとう。
新たな学びが始まります。

 

 


25日目夜「いただきます物語」〜 実話に基づく死生観

農、食、医、経済、社会、環境、防災、そして性など、様々な切り口から世界観を学んできた1ヶ月。そのすべての根源とも言える「死生観」の講座を終えた日の夜、木の花劇団による演劇が披露されました。

タイトルは、「いただきます物語」。

これは、ファミリーメンバーのきょうこちゃんが、昨年子宮頸がんで生死の境をさまよい、奇跡的に復活した実話から生まれた、オリジナル劇です。
病気とは何か。死とは何か。
実際に病院で語られた会話などを元に、人間がこの世界で生きる意味を、劇団員たちがおもしろおかしく演じました。

生死の境をさまようきょうこちゃんのもとに現れる、個性豊かな八百万(やおよろず)の神々
生死の境をさまようきょうこちゃんのもとに現れる、個性豊かな八百万(やおよろず)の神々
人間の様々な側面を表現する八百万の神々に、受講生も子供達も大笑い
人間の様々な側面を表現する八百万の神々に、受講生も子供達も大笑い

劇の全篇を、動画にてご覧いただけます。ぜひどうぞ♪

後編の最後には、きょうこちゃんが入院していた時の実際の映像が含まれています。生死の境をさまよう日々、病室の中でも、外でも、様々な物語がありました。映像の中で、危篤状態になりながら一命をとりとめたきょうこちゃんは、涙を流しながら「遺言」を語っています。

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演劇の終了後、きょうこちゃんはみんなに挨拶をしました。

劇の中では「ようこ」役を演じていたきょうこちゃん
劇の中では「ようこ」役を演じていたきょうこちゃん

以下、きょうこちゃんの挨拶をご紹介します。


「劇を終えて」

いただきます物語、いかがでしたか?

まずは、みんなに報告があります。
昨日3月14日にがんセンターに検査の結果を聞きに行きました。
CT検査、MRI検査、細胞検査などの結果、癌が、あるかないかが分からない位になっているということでした。

私は子宮頸癌で、一番ひどいときは直径6.5センチほどの大きな癌の塊が子宮の入り口にあり、リンパや腎臓にまで浸食していました。約1年くらい前から断続的に大量出血があり、昨年10月の大量出血では命が危ない状態になり、急遽入院することになりました。

富士宮市立病院で放射線治療を受けた時に言われたことは、ここでの治療は血を止めるための応急処置でしかないから、早くて3カ月、長くても6カ月後にはまた同じような状況になるだろう、ということでした。
私も、生き延びることが出来たとはいえ、余命3カ月から6カ月だと覚悟はしていました。

でも、今信じられないような結果をいただいています。

科学や医学では説明できない何かが起こったと思うのです。
それは、この木の花ファミリーという場があったからこそ、起きたことだと思います。
みんなの愛と想いの力で奇跡が起きた。

だから、この物語は、きょうこ物語であると同時に、木の花物語なのです。
木の花マジック。あり得ないことが起きた。

こうしてみんなで集って暮らすことの素晴らしさが、この生き方の素晴らしさが、この私の体に起きた現象をもって証明されたのです。
すごい!!これは本当にすごいことだと思います。

入院中、この劇には盛り込み切れない、まだ沢山の物語がありました。
路上で茹でてくれた茹でたての新蕎麦、夢に出てきたお釈迦様の話、いさどんとした宇宙や世界情勢の話・・・。
劇のシナリオを書いていく中で、上演するには長すぎるので、たくさんの場面がカットされました。

そして、シナリオは一体何度書き直したかというくらい、読み合わせをするたびに、何度も何度も書き換えらえました。シナリオが出来上がり、今度は役者が演じるようになると、演じる度にまた何度も何度もシナリオが書き換えられました。
だからこれは、みんなで創り上げた劇。
そして、これは実際にあった実話に基づいていますから、木の花ファミリーのみんなによって創り上げられた劇なのです。

劇を練習していく中で、ある時魂が入る瞬間があります。
役者がセリフを覚えていなかったり、覚えたとしても覚えたものをただ言っているだけだと、観ている者に訴えるものがないのです。
セリフが自分のものになった時、そこにはアドリブが生まれ、セリフ通りではなくても観ている者に伝わり感動を生むのです。

私たちも同じだなと思いました。
私たちひとりひとりは、ある意味この世界の、というかこの宇宙劇場、神様劇場の役者で、神様が創ったシナリオのように人生をいただいている。
そのシナリオの意図を自分のものとし、自分のセリフとして演じることが、私たちに与えられた役割なんだと。

今回起きたことは、すごいことかも知れない。
でも、諸手を挙げてすごい、ということでもないのです。
だって、本当は癌というものをもらわなくても、こんな究極の状態をもらわなくても、人は学べる。
だから、みんなは私を見て、こんなになってはいけないんだと、学んでください。

体が元気になって、また癖が出てきます。
まだまだ癖だらけの私ですが、生きている限り、心の学びは続いて行くのです。

こうしてみんなと出会えたことに、
この生き方に出会えたことに感謝するとともに、
この稀な生き方をしていることを誇りに思います。
有難うございます。


 

講座で語られている死生観が、実生活を通してさらに深められていく。
そこにこそ、真実の学びがあります。

 

 


25日目午前「死生観」~ 死と一体となって、生きる

1ヶ月間の真学校、全講座の集大成とも言える死生観の講座をお届けします。


いさどん:
皆さんは「1ヶ月間の真学校」でたくさんのプレゼンテーションに出会いましたが、最後のプレゼンテーションがこの「死生観」です。これで情報の洪水からやっと解放されるかと思うと、おめでとうございます(笑)。
ただ、私たちが日々を生きるということは、実は情報の洪水です。私たちが1日を生きる時、「どちらへ行くか」という選択を常にしています。人間は常に選択をする生き物です。一日におよそ3000回の選択の機会があると言われています。それが自らの意思であり、自動的にスムーズにいくタイプの人もいれば、どれも迷い、抱え込んで、悩みながらいく人もいます。ただ、どんなに迷っても、明日は来ます。タイムリミットが来れば、それは積み残していくことになるのです。たくさん積み残していく人もいれば、自動焦点のようにスムーズにものごとを選択していく人もいます。そしてどのような選択をしていったのかによって、人生の結果が訪れてくるのです。

積み残しをたくさん持っている人は、きっと重い人生を生きていることでしょう。逆に、自動焦点のようにスムーズに選択できる人は、よく味わっていない分、充実していないかもしれませんね。自らの人生をどのように表現していくかは、それぞれの持っている精神性によって変わってきます。そしてすべての人は、その人にふさわしい人生を送っていきます。その最終章が、「死ぬ」ということです。

生死ではなく、「死生観」ですから、死んで生きると書きます。宇宙の原理は、相似形であり、対向発生であり、すべてのものが陰陽で成り立っています。陰という奥にある見えないものから、陽である現象が現れてきます。私たちが生きている世界から生死を捉えると、生きていることが前提となり、その向こうに死があると捉えられますが、それを客観的に捉えたら、私たちの解釈で言う死の世界の方が、現象世界の元にあるのです。その世界に存在することを、死と言っていいのかどうか。それを、私たちが現象界の側から捉える先にある不毛なところと解釈してしまえば、死の世界とも捉えられるのでしょう。

死という字を分析すると、どのように捉えられるでしょう。
「タ」と「ヒ」。「タ」は分離独立、そして「ヒ」は秘かな始まり ──── つまり、秘かに分離独立して立つ=すべての始まりという意味でもあります。一人の人間が生きて、その終わりを死というとしたら、その生をリセットした次に来るすべての始まりということになります。どちらにしても、「死は始まり」というのが結論ですね。

さて、私たちはどこへ向かって進んでいるのか。カタカムナ的世界観、そして、木の花ファミリーはなぜこの生き方をしているのかについてお話ししたいと思います。

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いさどん:
「21世紀の死生観」とありますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生きて死んで終わりではなく、また生まれて生きて死ぬ、そしてまた生まれて生きて死ぬを繰り返していくのです。私たちは、生を単純に捉えると、生きている時には「死にたくない」と思うものです。そこでは、死が恐怖になっているのです。しかし死が恐怖だとしても、私たちは常に死に向かって確実に近付いています。なぜだかわかりますか? ──── そう、明日が来るからです。
もしも僕が10日ほど時を止めたい、と思っても、世界はその思いをまったく聞いてくれません。それは、時が生き物だからです。そして私たちは、その生き物の一部として存在しているからです。時が生き物という解釈は、時が常に循環し、変化変容変態を繰り返す宇宙の基盤となるものであるからです。これは、私たち生命の共通した乗り物とも捉えられます。
この時という乗り物に乗らないものに、私たちはこの世界で出会うことはできません。この世界の中で、すべての存在は固有のサイクルを持ち、時と共にそれぞれのサイクルを刻み、連動し、ひとつの時の上に存在しています。そのサイクルとは、らせん運動です。

皆さんはこの1ヶ月間を通し、農、食、医、経済、環境、防災、そして性など、様々な切り口を通して世界観を学んできましたが、そのすべてが行きつくところが死生観です。

この講座のテーマは、広い世界観で生死を捉えることです。狭い世界観で生死を捉えると、死のイメージは常にブルーなもので、「死にたくない」という発想につながります。しかし、明日は必ずやって来ます。私たちが生を通して時を刻み、1日生きるごとに、確実に死は近付いてくるのです。ところが人は、「死にたくない」という想いに追われ、毎日を生きています。死を意識しないで生きていても、どんどん死は近付いてくる。
では、死が近付かないためにはどうしたらいいのでしょう。生きていると死が近付いてくるのですから ──── そう、生きなければいいのです。生きなければ、死は近付いてきません。しかし今現在生きているものが生きなくなるためには、やはり死が必要です。いずれにしても、私たちは死を避けることはできないのです。
そうであるならば、その絶対避けることのできない死を、私たちが生きていることの証として身近に捉え、仲良くしろとは言いませんが、死というものをよく理解することです。理解して生きるのです。理解して生きるということは、いつでも死を快く迎えられるということ ──── 私たちが生きるということは、死が対向発生の先にあり、常に死と隣り合わせであるのです。ですから、私たちは常に死と一体であるということを理解して生きることが肝要です。

死生観とは、死と生を共に捉えることです。生きることが大切で、希望であり、尊いものであるならば、死ぬこともまた大切なものであり、希望であって、尊いのです。現代の人々は、死と生を区別して捉えています。その捉え方は主観的な人間思考であり、客観性がありません。客観性の奥にはさらに、「客観背後」という視点があります。そこに行きつくには、世界観を広げることです。私たちは、生死というものの奥に、物理性と霊性の意味を絡めながら、さらにその奥(客観背後)にある世界の働きによって生かされていることを知るべきなのです。
「生死」という順で捉えると、まず先に、生まれてくることには、生きることの目的が託されていることになります。なぜ生まれてくるのか。生まれてきて、生きることにも目的があり、そしてその先の、死ぬことにも目的があることになります。死とは、この世界に生まれ出る前の、魂の本住の地へ還っていくことです。
毎日眠ることは、面倒ではありませんか?眠ることも、起きることも、まるで強制されているように感じませんか。僕は、現象世界のプールの中でその不自由さを嘆いています。生きるとは、そういった不自由さの中で生きる心の鍛錬の場です。そこからすると、魂の本住の地というのは安定した場です。そこへ行くと、現象世界に生きていた時の自分をじっくりと振り返って観ることができます。ああだったな、こうだったな、次はこうしよう、と、来世のプランを練っているかもしれないですね。そして「よーし、今度こそは!」と生まれてくるのです(笑)。

ようこ:
おもしろいのが、日本語だと「死生観」というように「死」が先に来るけれど、英語では「the view of life and death」というように「生」が先に来ます。

いさどん:
日本語でも「生死」という言葉がありますから、どこで区切って捉えるかということでしょうが、やはり東洋的捉え方だと「死生観」になるのでしょうし、西洋的捉え方だと「生死観」となるのかもしれないですね。

みかこ:
日本語でも、「生死の境をさまよっている」という時は、生きている側から死の方に向かうという捉え方だから「生死」になるね。でも「死生観」は死をどう捉えるかということ。

いさどん:
「死生観」は、死をどう捉えるかというよりも、生死を超えたところで、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを、冷静に捉えるということでしょう。

めぐちゃん:
東洋は「陰陽」と言うように、まず陰が先にある。

みかこ:
連綿と続く命としての死生観が、自然と身に付いている。

いさどん:
生態系と同じで、私たちが命の循環をどこで区切るかによって、ある時はシマウマだったり、ある時はライオンだったり、ある時は草だったり、微生物だったりする。

エリちゃん:
アメリカのあるコミュニティで暮らしていた時に、初めて日本人の友人ができました。その人はカップルで暮らしていて、いつもケンカをしていたので、ケンカをやめるように伝えると、「私たちはもうずっとこれをやってきているんですよ」と言うのですが、彼らが言っているのは今世だけではなく過去世でもずっとそうやってきたという意味なんです。そういう捉え方があるのかとびっくりしました。

昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加
昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加

いさどん:
魂からケンカしているのでしょうね。出来事の詳細はどうでもよく、日々対立する相手がそこにいるということが生きがいになっている(笑)。けいごくんが理由もないのに不安を感じるというのも、魂から来るもののひとつですね。

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いさどん:
『「死生観」は多岐にわたる真学校のテーマの中でも、集大成となる根源的なテーマです。私たちが抱える問題の全てが生きていることから発生します。にもかかわらず 「人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、そしてなぜ死ぬのか」といった根本的なことに疑問を持たずに、あるいは曖昧にしたまま、私たちは生きています。』
曖昧にしたまま、問題ごとを抱えている。その問題ごとの原因が何であるかということを追求しない限り、問題ごとが発生し続ける人生になります。

『生命あるものは皆必ず死を迎えます。死について深めることは、生きることの意味を考えることであり、生も死も合わせた連綿と続くこの世界の仕組みを知ることなのです。
世界観を広げ、自らを壮大な宇宙の中の「ひとかけら」としてみていくならば、今まで見えなかった真実が浮かび上がってくるでしょう。』

すべての学びの集大成であり、根源的なテーマであるのが死生観です。我々はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。誰か聖人が出てきて、生きるとはこうである、と、ざっくり決めることはできないのです。
僕は、ひとつの答えを皆さんに提示しようとしているのではありません。誰もが一人ひとりオリジナルな生き方をし、その中でお互いを活性化しあっていくのが、地球生態系そのものの姿です。人間は、その地球生態系の姿に倣っていくのが大切なのです。僕から観たら不十分と思える人も、一人ひとりの歩みのサイクルがあるのですから、そこを理解し、寄り添うようにしています。その先にある答えが何であるのかがわかっていて皆さんを誘導しているのでもなく、それは未来が教えてくれることです。答えを持って誘導するなどという傲慢なことはしません。
主役は、一人ひとりです。一人ひとりが個性的に、生き生きしながら、大切な死をどのように迎えるかということだと思います。

生きているものは、必ず死を迎えます。生の最終段階である死を深めることは、生きていることの意味を考えることです。例えば学校で勉強をするにしても、何のためにこの学校に入ったのかということが明確でなければ、勉強自体を楽しむことができないでしょう。つまり、生きていることの意味がわからなければ、生きることを楽しむことができないのです。そんな状態では、生きることにより、翻弄される人生になってしまいます。
生きていることの意味がわかるとは、答えがわかっているということとは違います。答えは、先に進んでみていただくものです。人生とは、何かの試験のように答えが決まっているのではなく、その時々で現れる答えをいただきながら、どのように生きていくかなのです。
この連綿と続く生命の仕組みを知ることは、生きながら死ぬことを学ぶこととも言えます。最終的には、この壮大な宇宙のひとかけらとして組み込まれ、私たちは宇宙を存続させている立場に立つのです。それを宇宙の側から観れば、宇宙を運営する立場に立つということになるのです。世界観が広がれば、神と共に、宇宙を運営する側にも立てるのです。

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いさどん:
私たちは、死を「出発(たびだち)」と呼んでいます。去年、木の花ファミリーの死生観を刺激してくれた出来事がありました。メンバーのきょうこちゃんの子宮頸がんが進行して、何度も危篤状態になりました

私たちはとても複雑な人生を生きていますから、死ぬためには心の掃除というか、整理整頓をする必要があります。次のスライドは、昨年木の花ファミリーで行ったアンケートの冒頭の文章です。皆さんも、アンケートに答えるつもりで聞いてください。

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いさどん:
有史以来約3000年間、「王の時代」という、権力が支配する時代がありました。その時代、人々の命は、社会の行く末を握っている権力者のもとにありました。社会を束ねる一部の人たちによって、主役の座が担われていたのです。
その後、宗教の時代が始まり、聖人が現れて、優れた考え方や生き方をモデルとして示すようになりました。それが尊い見本のように捉えられ、人々が生きることは既製品化されていきました。
今僕は、この出発アンケートの文章を読みながら、生きることには様々なかたちがあるということを思っていました。ここに『今の社会において、死生観という概念は一人ひとり違うものです』とありますが、人それぞれが持っている価値観によって、生きることも死ぬことも、受け取り方が違ってきます。それは人の数だけあり、それでいいのです。
ただし、たくさんありますが、それらはすべて、共通する器の中に存在しています。共通する器の中に存在しているのですから、それは個性的ではあっても、バラバラで無秩序なものではいけないのです。そこでは、何かモデルを示してもらわなくても、この世界を正しく認識できていれば、それぞれの個性が尊重され、皆が同じ目的を持って生きることは当然なことになるのです。つまり、そこでは何かに強制されたり、見本に倣うのではなく、そこにいる一つひとつの生命が、自らの気付きによって同じ目的へ協同していくという時代の流れのもとにあるのです。それが21世紀に人々が取るべき生き方につながるのです。

めぐちゃん:
人それぞれ価値観は違うけれど、根底には共通したものがあるということ。以前、よしこちゃんが、ユングの言葉に「元型」 ──── アーキタイプというものがあると教えてくれた。表面的には見えないけれど、根底には人類共通の秘められたパターンを有していると。

いさどん:
それは人類共通とも言えるけれど、さらに生命共通、宇宙共通とも言える。それは、末端の一つひとつによって成り立っている。

みかこ:
前から気になっていたのだけど、「精神」という文字には「神」が入っている。この「神」とは何を表しているのか。

よしこちゃん:
「精神」とは、神のエッセンスという意味なのではないかと思う。人間のような精神活動は、動物にはない。それ自体が神の働きを表している。

みかこ:
精神性の高い犬とか、精神病の猿とか、いないものね(笑)。ということは、「精神病」というのはやはり精神を病んでいるということだね。天と通じる心が分断されている。

いさどん:
それはとてもデリケートで精妙な部分にアクセスしている。そこへアクセスできないがためにそうなっているということは、逆に言うと、そこに戻るためのきっかけとも言える。

エリちゃん:
去年の6月に父が亡くなったのですが、この死生観のプレゼンテーションはとても興味深いです。私にとって、葬儀は喪に服すというよりも、祝福のイメージです。私はアフリカ系アメリカ人ですが、父の葬儀の時には、黒い服を着たい人はもちろん着てもいいのですが、私たちは伝統的なカラフルな衣装を着て歌ったり踊ったりして、誰かが「これはお父さんの卒業式だね」と言っていました。まさにこのプレゼンテーションと同じ感覚です。

いさどん:
木の花でも、出発(たびだち)は「マツリ」です。だから、きょうこちゃんが逝ってくれたらみんなで楽しめたのにね(笑)。

めぐちゃん:
「死」という文字の中には、すべての始まりを表す「ヒ」が入っている。始まりの「ヒ」と分離独立を表す「タ」が、横棒の下にあるということは、まだ表には現れない潜象界にあるということを表している。

いさどん:
めぐちゃんにはぜひ、論文を書いてもらいたいですね。
さて、次のスライドは、出発アンケートの内容です。

スライド7

いさどん:
これは遺書を書くのと同じようなものですね。若い人の場合、変わっていくこともあるでしょうから、折に触れてこのアンケートをとり、一番新しいものを採用するようにします。メンバー一人ひとりがどのような回答をしているのかを見ていくのも面白いですよ。木の花ファミリーとは、こんなことをやっている面白い場所です。

スライド8

いさどん:
死というものは、できればソフトランディングするように穏やかに迎えたいものですが、危惧する心や恐れなど、体中に囚われの鎖をつけてがんじがらめになっている人がたくさんいます。がんじがらめになりながら、それでも「死にたくない」と言うのですから、現代人の心は複雑になったものです。

よしこちゃん:
看護師として働く中で、本人は死にたくても家族がNOという場合があり、その方が不幸だと思っていました。本人は苦しくて「死なせてくれ」と言うのですが、家族は「何とかしてください」と頼み、その人の生死が自分を離れて家族のものになってしまうというパターンがとても多いのです。

いさどん:
僕の母が死ぬ時には、家族は「もう何もしなくていい」という意思だったのですが、その意思を受け取らない医師がいて、意思が合わなかったですね(チーン♪)。こちらがもういいですからと言っても、医師は「我々には立場がありますから」と言うんですよ。

みかこ:
医者の役割が、生かすことだけになってしまっているね。

いさどん:
病院の方針でもあるのでしょう。やればやるほど、病院の経営にとってはプラスになりますから。本人にはそのつもりはなく、医師の使命だというのですが、どことなくベースに、ここまでの治療をしてここまでの成果を上げて、という、患者一人当たりに対する売り上げの基準のようなものが感じられるのです。

みかこ:
きょうこちゃんの場合は、逆に医者の方が諦めていたね。

スライド9

いさどん:
受講申し込みのあった人たちの国の死因を表にしてみました。どこからデータを取るかによって順位は変わってきますので、あくまでも情報の一つです。

スライド10

いさどん:
死ぬ時にはあまり病院などでガタガタせずにサッと逝きたい、という人が多いようです。しかし実はこちらの方が往生際が悪いとも言えます。サッと逝きたいというのは、いろいろ考えてしまってそれが辛いからサッと逝きたいということでしょう。寝込んでもいいという人は、それを味わってもいいということですから、むしろ覚悟があるとも言えるのです。
【選んだ理由】として、1の人たちは「家族に迷惑をかけたくない」と答えていますが、そこが大きな勘違いで、そういう死に方をする人は、実は生きている間に既にたくさん迷惑をかけているのです。

みかこ:
一見、1の方が良さそうに見えるけれど、その回答の奥にある心を観ると、実は家族や自分自身と向き合いたくないからということが観えてくるね。

いさどん:
その下のアンケートからは、死後の世界について若い人の方が信じていることが伺えます。愛知県の学生だけがそうなのかはわかりませんが(笑)。戦後生まれの世代は物理的なことばかりを追いかけてきましたが、若い人たちは死に対してロマンを感じているのかもしれないですね。

『死に関して語り合うことは何となくタブー視されている。親やおばあちゃんがこういっていたからそう思っていたなど、確信の持てるものは何もない。死後の世界を信じていない人でも、形式的なお墓参りや、葬儀はするという結果が出ている。』
日本は仏教の国ですから、葬式やお墓参りをしますが、死後の世界がなければそんなことをする必要もなく、ただ送って終わりでいいはずです。東日本大震災から6年が経って、死んだ孫にランドセルを買っている人がいますが、死後の世界を信じていなければそんなこともしないはずです。現代の人々にとって、そこは極めて曖昧なままの状態になっているのです。それがこの世の中の曖昧さを創り出しているとも言えます。

めぐちゃん:
現代人が死を忌み嫌うのは、戦争で大量殺戮が生まれて、そこで大きく死に対する捉え方を変えられたということもあったのではないでしょうか。

いさどん:
戦争では銃を使いますが、確かに引き金ではありますね。では人間はなぜ戦争をするのかと捉えていくと、そこに人間の性質が観えてきます。なぜ戦争をするのかと言えば、自分の家族を守るためであったり、自分を守るためであったり、生きることが目的なのですが、それが自分に特化した都合の良い考えの下にあるものですから、結果的にそこに死が発生するわけです。

みかこ:
かつて「王の時代」には、王の一存で国が動き、民衆は言われた通りにするしかなかった。王の意識がそのまま世に反映するから、王が守りの姿勢なのか、民を大切にするのかによって、世の中も変わっていった。

いさどん:
「宗教の時代」も、例えばキリスト教の名のもとに十字軍が遠征したり、アフリカではキリスト教の名のもとに植民地化や奴隷制度が浸透していきましたね。現代でも、ジハードの名のもとに自爆テロが行われています。現代文明につながる発想が、6500年前に始まった「王の時代」から続いているのです。

みかこ:
太陽の一螺旋の光のピークの時と、現在の闇のピークでは死生観がガラリと変わっているけれど、その起点が6500年前の王の時代から始まっている。ネイティブアメリカンの死生観は「今日は死ぬのにいい日だ」と言って、自ら旅立つ日を感じ取ったりする。王の時代の前まではそういう死生観が息づいていた。王が恐怖に駆られたり自分の命を長らえたいと思えば、自分を守るために民を戦争に使うという世の中になるけれど、それ以前の時代は、みんなで生きていたんだよ。
アマゾンのある先住民族の、興味深い話がある。その民族は、女の子が平均14歳で妊娠して森の中で出産し、産んだ子を育てるか育てないかを精霊と対話して決め、育てない場合はバナナの葉に包んでシロアリの巣に入れて食べてもらう。生まれたばかりの子を人間ではなく、精霊と捉えている。

いさどん:

それは現代人からしたら残酷なように聞こえるかもしれないけど、聖なる生き方をしているということでもあるね。

めぐちゃん:
それはヤノマミ族ですね。自分たちのコミュニティを神に委ねているということでしょう。人が増えすぎてもコミュニティとしてのバランスが崩れるし、子どもを育てるかどうかの決定権が天にあって、全体を運営してもらっている。

いさどん:
生きることは自分達で所有せず、決定権が自然との対話のもとにある。逆に、人工の世界が進むと、生きることの決定権はすべて人間が握るようになりますね。

スライド11

いさどん:
『曖昧な死生観のままに生きています』
とありますが、私たち人類は、これまでに数え切れないほどの死に出会ってきています。にも拘らず、その死を定義することができず、その都度その都度、それぞれの人生観や人間性や社会的背景などの環境によって様々なことが語られながら、ずっと曖昧なままなのです。曖昧であるということは、多様性の世界で様々な死の捉え方があるということであり、それはそれでいいのですが、その奥に、私たちは生まれてきたら必ず死ぬものであり、その死への旅の途中で出会うものの積み重ねが、最終的に死へと旅立つ時の自らの精神状態を構成するものになっていくという基本だけは押さえておく必要があります。それがないまま、ただ迷い、グルグルと考えた末に生まれてきた意味も分からないまま旅立っていく人がいるから、次に生まれてくる人たちもまた曖昧な状態で生まれてくるのです。しかしよく考えてみると、時代がそういうことを要請していたとも言えますね。

よしこちゃん:
私もそう思います。以前、なぜ死がタブーになっているのかを集中的に考えていた時期がありました。現代は死というものが家から切り離され、病院や施設など人の目から離れた場所に委ねられるようになり、死というものを目にする機会がなくなってしまった。死とは何なのかをリアルに体験せずに、ただ病院から連絡を受けて駆け付けたらもう死んでいる状態で、間が見えないからこそ、死が恐怖になっていったのではないでしょうか。
自分も看護師として働く前は、それこそ死んだ後のおじいさん、おばあさんくらいしか見たことがなかったけれど、勤務した先が、お年寄りが多く、比較的自然に死を迎えるような対応をしている場所で、余計なことをしなければ、人間はとてもスムーズに旅立っていくのだということを目の当たりにしました。だんだん眠る時間が多くなっていき、仏さまの顔になっていくのです。そうすると「ああ、そろそろだな」ということがわかり、ソフトランディングしていく。それを見ていたら、死は怖くもないし、人間の終末の過程というのは余計なことをしなければこういうものなんだ、ということがわかりました。

みかこ:
私の母は1年以上管をつながれて生きていたけれど、それがなければもっと短い期間でそのプロセスを経て、早く死んでいたかもしれないね。

よしこちゃん:
体は自然とそのようになっていきます。低体温になって、一種の冬眠状態のようになっていくんですよ。

いさどん:
きょうこちゃんの場合は、逆にみんなで押しかけていってダジャレを言って笑わせて、本人はソフトランディングしようとしていたのに甦らせちゃった(笑)。

めぐちゃん:
両方でしょうね。そういう関係性を持つことをきょうこちゃん自身が選んだわけでもあるから。

いさどん:
僕には思惑がありました。あなたはまだ使えるのにもったいないだろう、こちらはこちらで覚悟はしているが、逝くなら使い切ってから逝け、まだ死んでる場合じゃないぞ、と。

みかちゃん:
きょうこちゃんのことはいろんな角度から捉えることができる。私はきょうこちゃんはまだ寿命ではないと観ていたから、いさどんのように覚悟はしていなかった。だって精神の遍歴がまだ終わっていないから。

いさどん:
逝こうとするものを縛ってはいけない。その後の魂の旅路のことを考えたらね。

めぐちゃん:
その時点できょうこちゃんの人生はきょうこちゃんのものではなくなっていますね。

いさどん:
その人の人生が個人のものではないというのは、豊かなことですね。情にまみれていては醜いものになりますが。
僕はきょうこちゃんをもったいないから復活させるということと、逝った時にはどうするかということを同時に考えていました。だから棺桶も買ったし、骨壺もとしちゃんに焼いてもらいました(笑)。
この物語には続きがあって、きょうこちゃんは復活したら復活したで、もうあの時のことを忘れてしまって元のきょうこちゃんのクセが出てきています。だからもう、死相がまったくないんですよ。元のきょうこちゃんだから。昨日も「あなたはまた性格の悪いところが出てきたね」と伝えたところです。

スライド12

いさどん:
死とは、昨日から今日、今日から明日へと向かうのと同じことです。人生が充実していれば死も充実し、人生が曇り空かどしゃ降りのように生きていれば、死ぬこともそのようになります。すべて自分次第です。

スライド13

いさどん:
肉体と魂とは、見えるものと見えないものですね。魂は陰ですから、見えない世界につながり、さらにその奥の世界にもつながっています。肉体は生態系の構成要素として三次元宇宙にあり続けます。その両方をつなげているのが人間の体であると言えるでしょう。
人間は精神性を持っていますから、そちらの世界へつながっていますが、動物の場合はどうでしょうか。植物はまさに精霊と対話していますね。特徴は自我がないことです。
死を迎えると、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙へ還っていきますが、相応しい異次元宇宙というのは、地獄から、多次元構造の高次元宇宙まで幅広くあり、その幅広い中から様々な段階の魂が、ひとつの時間と空間の下にある現象界へ降りてきているのです。ですからこの世界で生きているということは、ものすごく多様なものを見ることができる、体験ツアーのようなものです。本当に狭い世界観で晩酌だけを楽しみに生きている人もいれば、宇宙を運営するくらいのスケールの意識で生きている人もいます。
死ぬと、肉体と魂は分離します。生きているということはそれが連動しているということであり、両方を感じて生きることができます。そこでどちらにより偏るかによって、バランスを欠くこともあります。

スライド14

いさどん:
この図の中心にある肉体は、現象界のものです。現象界のもとは、地水火風空です。それらは太陽がもとになって、循環しています。人は地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。毎日酸素を取り込んでは、二酸化炭素や水蒸気を排出し、それらを取り込んで地に育まれた植物を食べ、水も飲んで排せつしたり蒸発したり、太陽からもエネルギーを取り入れて熱にして、その熱を排出しています。地球生態系を構成する五大要素「地水火風空」といういのちの循環の中で、肉体というのは3次元世界にあり、魂によって束ねられています。魂が抜けるとそれは一気に分解し、この世界へサーッと還っていくのです。その過程に腐敗があったり、発酵があるということですね。

スライド15

いさどん:
先ほどの地水火風空は、この図で言うと横糸です。これは少し意識したら感じられるものです。ところがこの縦糸が、今の人たちにはわかりません。これは霊的なものですから。現代の人たちはこの縦糸を見失っているものだから、よこしまに流れてしまうのです。
潜象界から常に湧き出してくる元の気=生命力が縦糸となり、横の循環が生まれます。横の循環とは、地水火風空とそこから発生する生命のネットワークです。食べることと排せつすることは、命を自らの中に取り込み、また次へと渡していくことであり、そこを小さく区切って捉えれば弱肉強食の世界にもなります。しかし全体をつなげて観れば、命のバトンタッチです。
このネットワークは、柱が立つことによって全体が正常な位置につきます。しかし柱がないと、バラバラにぐるぐると回って無秩序な状態になります。それぞれの生命に固有の寿命やサイクルがあるということは、それぞれに役割分担をするためにあるのですが、それがてんでバラバラでは連携しません。そして自然界が乱れていくのです。

依正不二(えしょうふに)という言葉があります。人間以外の存在を「依法(えほう)」といい、人間だけを「正法(しょうほう)」とするのは、人間だけがこの仕組みを体系化して理解し、その次元の意識を持ってこの世界に生きることができるからです。人間が高次の意識を持つことで、この世界の不具合を修理していくことができるのです。人間以外の存在は、ただ受け取ることしかできません。

みかこ:
動物は四足で、人間だけが二足歩行なのは、やはり人間は縦の軸を持っているから。動物は四つ足で自然の摂理のままに生きている。その横糸と、縦の糸を統合するのが人間の役割なのだけれど、今の人間にはそれができていない。

いさどん:
人間は縦と横の両方を併せ持っています。それが「ヒト」という存在です。

スライド16

いさどん:
先祖から受け継いできた縦の糸と、魂の輪廻である横の糸が紡がれて、今のあなたがいます。縦の糸を15代さかのぼると、すべての人の先祖はひとつになるそうです。それをさらにさかのぼっていくと生命の始まりになり、さらにさかのぼると宇宙の始まりになります。さらに子孫の方をずっと未来へとたどっていけば、生命の終わり、宇宙の終わりにまで行きつきます。つまり、今の自分というのは、過去の宇宙の始まりから、未来の宇宙の終わりまでを情報として持っているプロセスとしての存在だということです。
縦糸は物理的DNAの流れです。そして横糸は魂の変遷です。今の自分は、過去の自分の人生の結果として、相応しい惑星の配置のもとに降りてきています。そして今世の結果がまた、来世へと反映されていくのです。そしてそのすべての生に、先祖と子孫がいます。その先祖も子孫も最終的には宇宙の始まりと宇宙の終わりという共通に行きつきます。これらのすべてが、宇宙そのものなのです。
その中で私たちは、現在のポジションを、霊的にも、物理的にも共有しています。よく「先祖が大切だ」とか「我が子がかわいい」と言いますが、では前世での先祖はどうなるのか、来世での子はどうするのかと考えたら、身内は世界中どこにでもいるのです。そうすると、私たちはひとつの命であることがわかります。

それでは、カタカムナからこの世界の生死の仕組みを観てみましょう。

スライド17

いさどん:
カタカムナは、人間の智恵の中のひとつの捉え方というよりも、現象界も潜象界も含めたこの宇宙の壮大なドラマを物理的に解析してくれているものですから、人類、特にこれからの人類に対する大きな贈り物であると言えます。ただし、それを学問のように捉えてしまっては、たくさんある切り口の中の一つにしかなりません。
この図はこれまでに何度も見てきましたが、もう一度おさらいをします。私たちが生きるこの現象界は、「見える世界」と「見えない世界」から成っています。目に見える肉体や現象、そして目には見えない思いや心が組み合わさった、陰陽から成る「カタ」の世界です。現代の科学は、この見える世界の中だけで回っています。とても優れたものでありながら、見える世界の中だけに留まっているので、考え方や文化が偏っていき、対立を生んでいます。
その「人工」の世界から「自然循環」になると、見えない世界も含めて循環するようになりますから、現象の世界の奥には、この世界をひとつに貫く法則があり、豊かで美しい多様性ある世界を表現しています。多様性とは拡大して広がるものですが、その無限に拡大して広がっていくダイナミックなこの世界は、実はすべて、一番大本の世界から生まれてきているということを理解したのが「天然循環法」です。見えない世界と見える世界(「ある世界」)という陰陽の背後に、「ない世界」という陰があり、その三層構造によってこの世界が成り立っているのです。これは、カタカムナの世界観があるからこそひも解けたことです。

20世紀までの自然循環の考え方では、人間の行いによってこの世界はいくらでも歪められていきます。今の放射能の問題をどうするのか、今の固定された宗教の概念でイスラム教とキリスト教はいつ調和するのか、いつになったら人々は、すべてはこの宇宙というひとつの枠の中に存在するということを理解するのか。自然循環までの捉え方では、それは永遠に解決されない、とても難しいことでした。
では、この世界のふるさとは一体どこにあるのか。そこで、もうひとつ大きなくくりの「ない世界」までを含めた世界観がなければ、人類は次の時代へ行けないのです。12900年前の光のピークの時代から、太陽の一螺旋の半周を経て、闇のピークを越え、質的転換を起こす時に我々は来ています。だからこそ、今この世界観が必要であり、それが地上に降ろされたのです。
長い間封印されてきたカタカムナを、戦後に出会って最初にひも解いたのは楢崎皐月という人でした。そこから様々な流れがあり、木の花ファミリーはそれを生活に落とすということをしていますが、カタカムナは誰のものでもありません。そしてその奥深さは、これから先へ行くほど深まっていくのだとしたら、誰もがその探求に参加し、深め、表現していくものなのです。それは世界共通のものであり、人類すべてがその世界観の世界を生きていると捉えれば、カタカムナはこれからの人類の進化に生かされることになるでしょう。

その中で、今日は死生観について語っています。このような真理に出会うのも、苦痛を感じるのも喜びを感じるのも、生きていればこそです。何のためにそれを感じているのかというと、その先にはちゃんと死があり、それが終わるとはどういうことなのかというと、質的転換を迎えて次のステージに進むということなのです。
死とは「ある世界」から「ない世界」へと質的転換することですが、現代人は「見える世界」から「見えない世界」へと行くことを死と捉えています。

みかこ:
そこでは質的転換は起きません。

いさどん:
見えると見えないを行ったり来たりしているだけなのです。

スライド18

いさどん:
これは、生死の仕組みをみかちゃんが図に表したものです。

みかこ:
この図ではトキ軸が横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、生きている期間と死んでいる期間を表すトコロ軸がらせんを描きながら進んでいます。見える、見えない、見える、見えない、或いは陰、陽、陰、陽と捉えてもいいですね。

めぐちゃん:
光は電磁波ですが、電磁波が伝搬していく時にもこういう波があります。それぞれの波長の長さがあり、それぞれの振幅という、云わば人生の幅がある。

みかこ:
例えばネズミのサイクル、象のサイクル、微生物のサイクルなど、それぞれに違う。

めぐちゃん:
その波長の長さによって色も変わり、そういうものがその人その人の個性になる。

みかこ:
この図は、誕生、維持、破壊、空を繰り返す宇宙の連なりを表していて、その形が蓮根のように見えることから「蓮根宇宙」とも言います。

いさどん:
蓮根宇宙は、満つれば欠けるこの世の仕組みそのものを表しています。そして蓮根にたくさんの穴があるように、大宇宙の中に無数の中宇宙や小宇宙が存在しています。宇宙が誕生し、拡大していって、意識が統合されていくと再び収縮していって、一点に集約される(蓮根と蓮根のつなぎ目の部分)のですが、そこが「無」であり、潜象界 ──── 即ち「ない世界」です。ここには時がないので、無限とも言えます。そしてそこがまた次の始まりでもあるのです。

スライド19

いさどん:
肉体は、自分のものではありません。宇宙の、地球の、生態系の循環の中で、自分という自我を持つ魂が呼び寄せた「縁」なのです。人生でいろいろなものに出会うということは、自身のニーズに周りが応えてくれているということであり、その縁によってすべてが紡がれていきます。この顔立ち、この性質、どこに生まれるのか、どのような家族を持つかということも、すべて自らの魂が引き寄せ、その魂のニーズに応える縁によって紡がれているのです。それはものすごく精妙な世界です。ですから愚痴っていることも、喜んでいることも、すべて縁から成っていくのです。

めぐちゃん:
蓮根も、切ると糸を引きますね。

いさどん:
蓮根が食べたくなったね(笑)。

『生まれてくる目的の一つは魂(霊性)を向上させるためにあります。』
ではなぜ向上させるのかといったら、宇宙は変化変容変態を遂げた結果、進化するために存在しているのであり、退化するという目的はないからです。
遥か昔、神様は光そのものであり、自分を認識することができませんでした。そこで神様は、自分から遠いところに闇を置き、そこから光の方へと戻ってくる道を創りました。光に近付けば近付くほど、それは希望となり、喜びとなります。逆に、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみを体験することになっていくのです。
今、人類は、その闇から光へと帰る過程にいます。そして完全に光へと帰ったら、今度はまた闇へと向かう道を歩み出すのです。その時には、みんなで積極的に苦しみましょう(笑)。そういう時もあるかもしれないということです。

『現象界(自然界)は個に独立したものの生命ネットワークです。従って、個々の生命は自らに偏っています。』
ですから、自然界では偏っていることはOKなのです。その偏りが個性となり、それがネットワークしていけばいいのです。ネットワークせずに独りよがりになると、独りよがりのものたちが作る現象が展開するようになります。そこに不調和が発生して行き詰まるようになっているということは、ネットワークすることが目的であり、そのネットワークを断ち切ると問題が発生するようになっているということです。
ですから、目には見えませんが、私たちには確実にそこに行けるような一方通行の道が用意されているということです。ですから、それを無視してそこに行かなければ、痛みが発生するようになっているのです。何という心憎い配慮でしょうか。

みかこ:
偏っていてくれないと、困るね。偏っているからこそ、光は光、水は水、空気は空気の働きができ、この世界が循環していく。そこで個々が個性を持ち、一度は分断したからこそ、つながる喜びが発生する。つながるとこんなにうまくいくのか、ということが体験できるようになっている。

いさどん:
そういったものの象徴的なものが原爆です。核融合という光の発信元は、我々三次元生命の元となる仕組みです。それを武器として使えばあのような究極の破壊の世界ができるのです。あの仕組みはすべての三次元生命の源であり、聖なるものの根源であるはずなのに、使い方を誤れば破壊の権化と化すのです。

人間の意識が狭い時には、ある村の中で一生を終えることもあります。自分の所属はその生まれた土地にある。それが、世界観がどんどん広がると、日本国、アジアと広がって、それが世界になり、地球になり、21世紀は人類の意識が宇宙にまで広がり、宇宙人として生きる時代がやって来ます。これから、人間が宇宙の運営をどうするかという時代が確実に来るということです。

スライド20

いさどん:
死ぬということは、寿命が尽きることです。人間の手の内にあるのは、その与えられた寿命をどう生きるのかということです。人生の中身については、個人の意思が尊重されています。
すべてはその人の裁量の中にありますが、裁量の中にあるにしては、けっこう方向付けがされてもいます。それが何かと言ったら、独りよがりで独善的に生きれば衝突が起き、不調和に生きれば苦痛が発生します。バランスを欠いていれば、必ずそのバランスに相応しく、問題ごとが発生するようになっています。つまり、バランスを整えなければいけないようにものごとが起きてくるのです。私たちの人生に自由を与えているという割には、神様は結構介入していますね。
実は、神様は完璧に介入しています。自由を与えているというのは、神様は自分から遠く離れたところに闇を置き、そこから人間が光の方へと戻ってくる時にどのような過程を経るのか、その振幅の幅については自由が与えられていますが、闇の側から光の方へと戻ってくる道については、完全に一方通行なのです。神様は自由を与えていると言いながら、ものすごく束縛しているでしょう?なぜだかわかりますか。

としみちゃん:
すべて神が創ったものだから。

いさどん:
そうです。この世界はすべて、神様のマスターベーションです。私たちも神様の心の中にあり、神様そのものなのです。神様がぶわーーっと膨らませた心の一部なのですよ。ですから、この世界のあらゆるところに「カ」が遍満し、神の息吹が満つっているのです。それがぐーっと収縮して統合すると、また神様一人の世界です。それをぶわーーっと膨らませたものが多様性に見えるだけで、膨らんだり、収縮したり、これは宇宙の呼吸であり、すべてが神の実体です。
ですから人間の自由というのは、お釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空のようなものですね。それが神様と私たちの実体であり、私たちが神様に向かって「あなた」と呼びかけること自体がおかしいのです。私たち自身も、「あなた」の内にある一人だからです。

スライド21

いさどん:
この図は、宇宙の誕生から消滅までの神の一呼吸を表したものですが、まさしく目のように見えますね。目は英語で「アイ(eye)」ですね。

みかこ:
目もアイであるし、図の中心にいる自分自身も「アイ(I)」だね。

めぐちゃん:

自分という存在も、相手があればこそですよね。相手、つまり「アイ」の「テ」ということ。

いさどん:
私たちはこの宇宙にあって、自分という狭い枠に囚われていれば、その意識は見える世界の中だけを生きることになりますが、囚われを外せば、物理的には見ることのできないミクロ宇宙もマクロ宇宙も、心で感じられるようになります。

スライド22

いさどん:
これは宇宙の中の私たちの立ち位置です。高次の意識になれば、宇宙全体を観測しなくても、居ながらにして宇宙の構造を理解できます。

まったく新しい情報を得る時には、古い情報は自動的に整理されて、捨てられることになります。そうでなければ、新しい情報は入って来ません。その時に、中が整理されないまま新しい情報が入ると、副作用が起きます。薬でも、拒否反応が出たりしますよね。しかし、まったく未知の情報ではなく、ただ忘れていることであれば、思い出して元の自分に戻るだけですから、それまでに持っていたものを捨てることで、むしろ楽になるのです。「忘れる」という漢字は心を亡くすと書きます。損得勘定に走っていると、忘れていくのです。しかし思い出せば、「ああそうだった」と本来の立ち位置に戻れるのです。

スライド23

いさどん:

『人間以外の生物は、このつながりから逸脱できない』とありますが、実は人間も逸脱はできないのですよ。では人間はどこで逸脱するのでしょう。人間は、自我を優先することにより、全体がひとつの集合体であることを忘れ、自らの立ち位置を踏み外してしまうのです。
一方自我は、すべてがひとつの集合体であるということを、客観的に観て学習するために、わざわざそこから離れるとも言えます。客観的に観て、さらに客観背後までを認識して、この世界を観ることもできるのです。しかしまた、そこから逸脱するということは、ひとつの集合体であることを忘れてしまい、この世界の調和を乱すようなものにもなります。人間とは諸刃の剣で、悪にも善にもなるのです。
神様がすごいのは、その両方を人間に与えたことです。つまり、「そなたは私である」と言いながら、「そなたは私から限りなく遠いところにいる」という道を与えました。その遠いところから元の光へと戻ってくる道のりが神様の意思で、遠ざかっては元に戻り、また遠ざかっては元に戻るということをくり返しているのです。
そう考えると、「神」という文字は、旧字体で「示」に「申」と書きますが、この世界は神と人間のキャッチボールと言えます。

もう一度、宇宙の構造に戻りましょう。
なぜ、地球があるのか。これから先、人類が宇宙を探査していく時代に、水を発見したり、微生物に出会うことはあるかもしれませんが、この奇妙な「ヒト」という、「ヒ」から「ト」までの要素を持っているような生き物に出会うことができるのかどうか。想像する限り、それは難しいですね。つまりそれは、地球という星が、いかに宇宙の総意で創られた奇跡の星であるかということです。そして「ヒト」というものがいかに宇宙の総意によってこの立ち位置を得ているのかを考えた時、私たちが地球に存在していること、生命であること、ヒトであること、そして自分自身であるということがいかに貴重で尊いことなのかということが観えてきます。
人間は自らの人生を自滅させるような人もいれば、マザー・テレサやガンジーのような聖人としての生き方をする人もいます。自分のことしか考えず、お酒やタバコなどの依存症になっていく人もいれば、自殺する様な人もいるわけです。多様性の世界を表現するための役割だから大丈夫だよ、うつになって生きていてもいいんだよ、と褒めてあげたいような大らかな気持ちにもなりますね。
これから私たちがさらに宇宙を探査し、ある星に辿り着いたら、それは「うつ星」だった。みんなうつで、うつであることがステイタスで、「高次のうつ」なんてものがあったりしてね。そういうの、どう?(笑)
うつだけではなく、そういった多様性の世界をピンからキリまで体験できるのが、地球という星です。そう考えると、地球に生きるとはすごいことだと思いませんか?何があっても、どんなことに出会っても、楽しいという感じがしませんか。そういった捉え方をすれば、生きることと死ぬことは、まるっきり正反対のようなものですが、この星に生きることは、それを両方体験できるのです。皆さんは、その体験ツアーに来ているのですよ。

みかこ:
発生学のことを思い出した。人間は最初に肛門ができて、そこから内臓が順々にできて、頭ができて、最後に脳ができる。だから脳は二次的なものだというのだけれど、脳には松果体という、宇宙を感知するとても大切な部分がある。とても高度なものであるからこそ、先にその他の部分を受け皿として創り、最後に脳を創ったのだと今理解しました。それは、動物の中で人間が最後に創られたことと同じ。高度だからこそ、その最終章に登場した。

脳は潜象界の感受体であり、体は現象界そのものを現している。特に手足は、さらなる現象を生み出していく現象化の働きをする。潜象界から現象界に現れる時には、自動的に質的転換が起こる。それは、脳の右脳は左半身に、左脳は右半身に作用する仕組みと同じで、まさに潜象界と現象界を質的転換しながらIMG_0361行ったり来たりするのと同じ仕組みになっている。同じように、目から入ってきたものは目の奥で焦点を結んで反転し、脳に認識される。つまり、目というのは、潜象界から現れた現象界を感知するための器官なんだよ。脳に直結し、現象界で捉えた像を脳へと送っている。その情報を持って、脳は現象の奥にあるものまで感受できる能力を持っているのだけれど、目が曇っているというのは、まさにそういった真理を探究する心の目が曇っていると言える。目(芽)は、表に現れている部分は少ないけれど、その奥に広がりを持っているものが控えている。まさに氷山の一角だね。

いさどん:
それは依正不二という言葉にも表れています。この世界で人間は、脳の役割を果たし、動物たちは現象化するための役割であるとも捉えられます。人間の目が曇っていると、結果、この世界のすべてが混乱していくのです。

めぐちゃん:
今聞いていて思ったのが、脳の松果体で受けたものが喉で交差して体へといくわけだけれど、まさにその喉で声 ──── 響きを発していますね。

みかこ:
そこに意志が現れる。いさどんがいつも言うのは、語ると現象化するということ。だから声に出すことはとても大事。

いさどん:
「イ」「シ」とは、「示し」の「位置」。体へ行くだけではなく、外にも発せられます。

みかこ:
その中で、松果体で受けたものには、天の意志が示されているんだね。

いさどん:

でも今は上(霊性=潜象界)よりも下(体=現象界)が優先してしまっている。

みかこ:
松果体は宇宙を感受する場所。カタカムナはここの感受性を磨くことを伝えている。

いさどん:

今は思考の主体が損得勘定になっており、そういった思考は下から湧いてきます。しかし本来、生きるとは、「今日は天気がいいから何をしたらよいでしょうか」と、上にお伺いをたてて生きるものなのです。そしてその結果も、先に行ってみていただいていく「いただきます」の姿勢であるべきなのです。

みかこ:
現代人は脳の10%しか使っていないというのは、現象界しか見ていなければ当然のこと。

いさどん:

6500年前から、そういった時代が始まりました。しかし13000年前には松果体優先で生きる人々がいたわけですから、地球46億年の歴史からしたらそんなに遠い話でもないですね。それもサイクルを刻みながら先へ進んでいるのですから、今私たちが物質文明をこれだけ発展させたのも、それを体験して次のサイクルへ行くためのものなのです。ですから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないですね。これを経験しなければ、次がないのですから。

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いさどん:

人間が正しく生きるとこの世界が正しく運営されるということは、人間が「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」になるということです。
人間は、この世界の法則から逸脱することができます。生命ですから、本来この世界の法則から逸脱することはできないはずなのに、できるとはどういうことかと言うと、意識の上で逸脱できるということです。そして、その逸脱の体験を学習することができるのです。
「依法」と「正法」は不二、つまり表裏一体です。依法と正法は、その双方が役割を果たすことによって、この世界を運営しているということです。それを忘れていてはいけません。

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いさどん:
この世界は「成住壊空」の仕組みで成り立っています。この拡大の始まる一点がビッグバンです。ここから世界が広がり、地球上では現象化が進んできました。生命も進化してきました。そしてピークを迎えると、「満つれば欠ける」というように、今度は崩壊に向かっていくのです。「成=誕生」「住=維持」「壊=破壊」と進んでひとつのサイクルが終わると、「空」即ち無になります。図で見ると、この「空」は一点で表されていますが、この点は天であり、無限なる宇宙でもあるのです。この点である瞬間が無限につながり、無限の世界を創っています。つまり、そこではトキも存在しないのです。それは限りなく長い世界であるとも言えるし、「ない世界」ですから一瞬で次の世界に切り替わるとも言えます。

『この世界は、「ある世界(現象界・陽)」と「ない世界(潜象会・陰)」を行ったり来たり(質的転換)しながら循環し、生死を繰り返している』
その天然循環の世界が神様の歩みであるとしたら、この図は神様の呼吸を表してもいます。私たち人類の文明も、同じように呼吸していますね。時代は、神様の呼吸で創られているのです。誕生し、死を迎え、誕生し、死を迎えるという陰陽のサイクルが無限に続いているのです。

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いさどん:
これは村山節さんという人が提唱した、文明周期説に基づいています。今私たちは西洋文明と東洋文明の盛衰が入れ替わる、転換期にいます。転換期だからこそ、こういったことに気付けるのです。そういった切り替え時だからこそ、今話しているようなことを理解し、語れるのであって、もっと前の時代にはそのような視点は持てませんでした。今、様々なターニングポイントが同時に地球上に訪れていますが、私たちがその大転換の時に生きているということはとても重要であり、めぐちゃんが言うように「過去にこんな時代があっただろうか」というくらい稀な時に私たちは集っているということです。
その中でも、こういった仕組みを理解できる場に集っているということはとても貴重なことです。世の中はまだ、銀河の冬至という闇のピークを越えたばかりで、季節で言えばこれから「小寒」「大寒」がやって来るのですから、もっと寒くなります。そういった事実を抜きにして、私たちは松果体を震わせて世界の全容を読み解ける立場にいるのですから、それは時代にとってとても重要な立場に立っているとも言えるのです。

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いさどん:
これからは、宗教のように何か他のものから価値を得ようとするのではなく、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり生きる時代がやってきたのです。

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いさどん:

どの宗教も同じですね。人々の「救われたい」という発想がベースになっているのです。

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いさどん:

この世界に生きるということは、自らが「無」となって宇宙の法の元にあるすべてのものごとをいただきながら、「有」である現象界を生きることです。私たちが生きるこの世界は、無と有が共存しているのです。

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いさどん:

お釈迦様が悟りを得た時、それはとても心地よい境地に至り、お釈迦様は一人でその境地にいつまでも浸っていたい気持ちになりました。しかし、尊き存在の立ち位置は、それではいけないのです。聖なる者として地上に降りたものは、迷える者たちを救わなければなりません。それが聖なる者の本分なのです。ですから神様は旅人に姿を変え、そのことを何度もお釈迦様に伝えました。

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いさどん:
その花とは、既製品ではなく、一人ひとりオリジナルな「個の花」です。

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いさどん:
なぜ「願ってやみません」と書かれているのかというと、そのことの大切さに気付いた者がどんなに高次の意識で投げかけたとしても、結局人間には自由が与えられており、自らがどのような意識で生きていくかは一人ひとりの選択なのです。
そのことの大切に気付き、ぜひその境地に行っていただきたい。この世界はあなたの目覚めにかかっているのですから。

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24日目午後「味噌作り」〜 宇宙の響きを醸す

4日前に仕込んだ糀を使って、今日はいよいよ味噌作り実習。
講師はおなじみ、やすえどん。フランスからやってきてただ今木の花ファミリーに滞在中のニコちゃんとアンケさん親子も参加して、にぎやかな講座となりました。

アンケさんとニコちゃん
アンケさんとニコちゃん

真学校では、座学と実習の両面から微生物について学びを深める機会が多くありますが、味噌作り講座はそのクライマックスとも言えます。

やすえどんによる味噌作り講座
やすえどんによる味噌作り講座

現代はお店に行けば様々な味噌が売られていますが、「本物の味噌」とは、元気で活発な微生物がたくさん住み着いている味噌、つまり「生きた味噌」のことです。
味噌の本当の値打ちは、大豆タンパクをアミノ酸化する過程で増殖する酵素、微生物の働きと機能、これを食することにより、体内に取り入れることにあります。たんぱく質は、体内でアミノ酸化されて初めて吸収されます。熟成された味噌の場合はすでに食べたときにアミノ酸化されていますから、非常に消化が良いのです。熟成中はもちろんのこと、完成した味噌の中でも微生物は生き続けていますので、味噌を食べるということは、大豆タンパクを取ると同時に、多量の微生物タンパク(アミノ酸)を食べることを意味します。味噌の微生物は、胃や腸の中に入ってからも活動を続け、新しい栄養成分の生産や、有害菌の増殖を抑えて免疫機能を高めます。また、腸壁の細胞機能に活力を与えるなど、腸の中をよりよい状態にするために役立っています。
このように味噌は、生きていてこそ価値のある食品なのです。

この中で無数の微生物達がはたらいています!
この中で無数の微生物達がはたらいています!

以下、講師のやすえどんより ───────


 

“宇宙の響きを醸す” 味噌作り講座

1ヶ月間の真学校も終盤を迎え、今回、味噌作り講座が最終実習となりました。
テーマは、「皆んなで作ると楽しい味噌作り♪」です。
そこで、「つくる」と言う言葉を「カタカムナ」の単音の思念で紐解いてみました。
ツ: 個々のものが集まった集合体
ク: 自由、自由にする
ル: 存在を保つ、行為を継続している
各々が、自由に行動する集合体

これは、まさに阿吽(あうん)のことを言っていますね。
阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表します。多くは「阿吽の呼吸」と用いられ、二人以上が一つの事をする時の微妙なタイミングや気持ちの一致を表します。
「つくる」と言う言葉の中に、なんと奥の深い意味合いがあるのでしょうか。しかも、集合体と言う言葉も出てきています。
とどのつまり、おいしい味噌作りのコツは、皆んなで気持ち良く響き合うと言うことですね♪

味噌玉を一投入魂「エイッ!」

魂しい〜(楽しい〜)

by やすえどん

 

一晩水につけ、朝から釜戸で蒸してやわらかくなった大豆を桶に取り分けます
一晩水につけ、朝から釜戸で蒸してやわらかくなった大豆を桶に取り分けます
そのまま食べてもびっくりするほど甘くておいしい大豆。つまみ食いの手が止まらない。。
そのまま食べてもびっくりするほど甘い大豆 ─── つまみ食いの手が止まらない。。
4日前に受講生が仕込み、2日前にできあがった(出糀/でこうじ)糀
4日前に受講生が仕込んだ糀
4日前に仕込んだ糀を揉みほぐし、大豆とよく混ぜます
糀を揉みほぐし、大豆とよく混ぜます
よく混ざったら大豆を潰してミンチにしていきます
よく混ざったら大豆を潰してミンチにしていきます
ミンチになった大豆をおだんご状に丸め ───
ミンチになった大豆をおだんご状に丸め ───
「エイッ!」と容器に投げ込んでいきます。味噌の糀菌は空気が嫌いなので、こうして空気が入らないようにするのです。
「エイッ!」と容器に投げ込んでいきます。味噌の糀菌は空気が嫌いなので、こうして空気が入らないようにするのです。
味噌を詰め終わったら空気が入らないようラップでぴったりフタをし ──
味噌を詰め終わったら空気が入らないようラップでぴったりフタをし ──
塩を重石として上にのせます
塩を重石として上にのせます

 

味噌は生き物。同じ場所で同じように仕込まれても、その後の環境を微生物たちは敏感に感じ取りながら発酵を進めていきます。半年後〜1年後には、受講生一人ひとりオリジナルな味噌ができていることでしょう。

 

どんな味噌が出来上がるのかは、お楽しみ♪
どんな味噌が出来上がるのかは、お楽しみ♪

 


20日目午前「糀仕込み」〜 命の花を咲かせよう

今日の午前中は、やすえどんによる糀仕込み講座!

やすえどん
やすえどん

こうじ(糀・麹)とは、米、麦、大豆などのようにでんぷんやたんぱく質を含む材料を蒸煮して、これにこうじ菌を繁殖させ、色々な酵素を生成させたものです。このこうじを原料として、酒や味噌、しょう油、御神酒などの加工品ができるのです。今回は、4日後の「味噌作り講座」で使う、味噌用の「糀」を仕込みます。

こうじ菌は「国菌」とも称される日本特有の微生物であり、目に見えないところで日本人の暮らしをずっと支えてきてくれた存在です。

美しい糀の花
美しい糀の花

「神様は宇宙を創造し、そこに人間という種をまいて、一人ひとりの命を花開かせます。今日は私たちが創造主となって、糀の花を咲かせましょう」とやすえどん。以下、やすえどんからのレポートです。


宇宙の響きを醸す こうじ( 糀 )づくり

真学校の生徒さんがこうじづくりを体験しました♪
まず、釜戸小屋にて4拍手👏👏👏👏
心と場を整えます。
始まりは火「ヒ」入れから。薪火の炎の美しいこと!パチパチと響く音も心地良く。さながらここは、異次元空間カマドカフェ⁉︎(笑)

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「カタカムナ」思念
ヒ: 静から動への出発点、ものの始まり

「糀とは高次元のこうじですね。」とは、めぐちゃんの弁。
「まさに‼︎」
眼には見えない糀菌(カビの一種)が培養することによって、蒸したお米に繁殖し、白い菌糸を出して綿状に広がり、美しい花を咲かせるのですから。これは、単に味噌の材料と言えるものではありません。

「カタカムナ」思念
コ: 転がりでる
ウ: 渦、生まれる
シ: 示されるもの
キ: 現象化、発生する
ン: 強める

高次元世界、潜象界より螺旋を描いて現象界に発生するもの。
宇宙物理学「カタカムナ」での紐解きが、講座の会話に花を咲かせてくれました。

by やすえどん

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こうじ菌はかびの一種で、生育の適温は34~37℃、湿度は80~90%です。繁殖条件が満たされますと、菌は発芽して白色の菌糸を出して綿状に広がります。繁殖が進むと酵素が生成され、菌糸内に生成されたものがこうじ全体に広がって浸透していきます。

以下、材料です。

米
米(精米したもの)
大麦または小麦(精麦したもの)ー 今回は小麦を使用しました
大麦または小麦(精麦したもの)ー 今回は小麦を使用しました

小麦は糀菌がつきやすいように、表面を少し削っています。お米と小麦の割合は1:1で、その0.1~0.2%ほどの種こうじを用意します。種こうじは専門店で作られ市販されています。これは、こうじ菌を純粋培養したものに木灰を混ぜて作ったもので、黄緑色でよく乾燥したものがよいです。

種こうじ
種こうじ

一般的に、味噌用の糀はお米だけを使うことが多いのですが、木の花ではいさどんの閃きで麦を使うようになりました。お米だけではなく自分たちで麦も育てていたので、まず材料があったということと、混ぜ合わせることで多様性が生まれ、味に深みが増すのです。

一晩水に浸した米と小麦を、米は蒸す30分前、小麦は1時間前にザルに上げて水を切り、カマドの火にかけ蒸しあげます。

蒸しあがった小麦 ー なんともいい匂い
蒸しあがった小麦 ー なんともいい匂い
小麦を割ってみて、白い芯が残っていなければOK
小麦を割ってみて、白い芯が残っていなければOK

蒸した小麦と米をムシロの上に広げ、菌が死なないように50℃まで冷まします。

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小麦と米が冷めたら、いよいよ種まき開始!糀の花を咲かせましょう♪

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種糀を手に持っていたら「何だかすごくビリビリする」とめぐちゃんとよしこちゃん ー 糀菌のエネルギーが伝わったのでしょう
お米と小麦の畑に種まき
お米と小麦の畑に種まき

種をまき終わったら、ひたすら混ぜ混ぜ。

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よく混ざったら、諸箱に移し糀室へ。保温庫にもろ箱を重ねて入れ、一番上に露防止のためのタオルを乗せて、庫内温度が28~32℃になるように保ちます。

いくつかの諸箱に分け入れ、それぞれを一塊にする
7つの諸箱に分け入れ、それぞれを一塊にする
お風呂場を改造した糀室 ー 壁が黒いのは「くら菌」です
お風呂場を改造した糀室 ー 壁が黒いのは「くら菌」です
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「くら菌」のようなやすえどんと一緒に♡

以後、約半日ごとに菌と対話しながらもみほぐす「手入れ」を行い、2日後に糀室から取り出す「出糀(でこうじ)」をして完成です。

材料が蒸しあがるまでの合間に、カマドカフェにて、1週間ほど前のフリープログラムで仕込んだ御神酒も試飲しました。

美しいピンク色の、黒米御神酒
美しいピンク色の、黒米御神酒
みんなでカンパーイ!!
みんなで「カンパーイ!」
用事があって一時帰宅中のオレンジくんの分も「カンパーイ♪」
用事があって一時帰宅中のオレンジくんの分も「カンパーイ♪」

御神酒は完成間近のいい感じで、「明日にはもう絞れるよ」とやすえどん。明日の午前中はフリープログラムなので、みちよちゃん講師による自力整体講座の後、またまたみんなで御神酒絞りをしにやってくることになりました。

この日の体験を、よしこちゃんは日記に以下のように綴っていました。いさどんのコメントともどもご紹介します。

 


よしこちゃんの日記

今日は糀づくりをしました。まるで神話の世界(=創世)を再現しているような気分になりました。
穀物(乾・種・男性原理)を水(湿・無形・女性性)に浸し、水を含んだ状態になった穀物に火(動・熱・男性原理)を入れ、変成させる(種をまくための土壌となる)。セイロから出した米&小麦はフカフカともり上がり、まるで雲(あるいは島)が湧き出すかのようでした。そこにうぐいす色の種菌を蒔き、上下をひっくり返しながらていねいに混ぜ込みます。
すると!なんてことでしょう!ご機嫌な微生物のマネをしたいさどんの姿がボン!と浮かび、本当に微生物がキャッキャッと言いながら笑っているかのように感じられ、つい私も一緒になって笑ってしまいました。

― いさどんのコメント ―
観えるべきものが観えてきましたね。

それを7つの島に分け 一昼夜と少し寝かすと 花が咲くのですね。
人間が花を咲かすにはずい分時間がかかりますが(笑)

― いさどんのコメント ―
固有のサイクルがあるのです。

微生物時間は限りなく「無い時間」に近いのでしょう。

日常の食を賄う過程に神事を見ることはこれまでありませんでした。日々の生活にそういうものをみいだせることはなんて豊かなことなのでしょう!

― いさどんのコメント ―
そうです。

でも本当は何をやっていても、瞬時瞬時にそれはそこにあり、それを感じるか/感じないか、みいだすか/みいださないか、だけなのかもしれません。
だとすれば、「豊かさ」は常にどこにでも、誰のもとにもあり、あとはその人が見いだすか/見いださないか、ということにすぎないのでしょうね。
潜象界がどこか別の世界にあるのではなく、遍満しているというのは、こういうことなのかもしれないな・・・と、ふと思いました。

― いさどんのコメント ―
かもしれないですか?それを真理というのですよ。

 

ニナが教えてくれたオランダ式バンザイ
ニナが教えてくれたオランダ式バンザイ
「フラーーー!!!」
「フラーーー!!!」

 

 


13日目午後「コンポストトイレの作り方」

13日目の午前中はフリープログラム、午後は「コンポストトイレの作り方」及び「微生物資材の培養」の講座がありました。
今回は、現在ミャンマーで行っているビジネスにコンポストトイレの導入を考えているてんちゃんと、持続可能な暮らしの研究のためにファミリーを来訪中のマレーシアの大学教授スバルナさん夫妻も講座に参加し、熱心に受講されていました。

研究のために来日中のスバルナさん夫妻
研究のために来日中のスバルナさん夫妻

以下、「コンポストトイレの作り方」の講座資料をご紹介します。

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