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21世紀の死生観・1~ 死は新たな旅の始まり

1ヶ月間の真学校の集大成とも言える講座「21世紀の死生観」。序章に続き、いよいよプレゼンテーションに入ります!

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いさどん:
『生まれてくることには目的があり、目的が終われば魂の本住の地へと還ってゆく』とあります。「還っていく」ということは、私たちの本来の住まいはそちらであるということです。
私たちは今、地上に生きています。それは、本来の地から、ある一定の期間だけ特別に降りてきているのです。何のためでしょう?それは、魂を磨き、優れたものとなるためです。しかしその磨き方を間違うと、中には汚れていくものもいます。汚れるとは、不要な思いがあるということです。そして、思いは、重い。ですから汚れるということは、重くなって、上へ上がれなくなるのです。あまりひどくなると、輪廻もできなくなります。

肉体を持ち、地上に降りると、たくさんの現象に出会います。その現象を通して、自分自身の心の垢が、たくさん見えてきます。性の講座で、性とは宇宙の根本原理であり、私たちの命を種としてつないでいく大切なものであるということを学びましたね。その性が、汚らしい、穢れた、おどろおどろしい世界にまで堕ちるのです。そういったことを、肉体を持つと、体験できるのです。
自らの魂の実態を知り、それを磨き、高めたいと思うものにとっては、肉体を持って様々な体験をすることのできる、この地球上での云わば体験ツアーは、とても大切なことです。そして誰もが、その目的のもとに生まれてきているのです。捉え方によっては、宇宙に無数にある星々を代表して、この地球という場所で魂を磨くための体験ツアーに参加していると言えるでしょう。
そうして一つひとつの魂が美しくなり、仕上がっていくと、いつか自らにふさわしいふるさとの星で、優れた魂として、その星を運営する側になる。そんな壮大なドラマも考えられるのです。

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私たちは生まれてくる時に、今までに成立させてきた過去の記憶を消されます。それは修行のためです。その理由がわかっていては、修行にならないからです。
私たちの本当のふるさとは、あちらにあります。簡単に言えば、私たちはもともと、宇宙の魂たちと同じ所属の存在であるということです。それが地球に降り立ち、人間として生きると、記憶を消されるのです。そして、生きることの本来の目的を見失い、迷いながら生きる者もいます。しかしいつかはその迷いを解いて、本住の地へと還っていくのです。
地球上の現実世界を見てみましょう。人間として生まれ、教育を受け、一生懸命勉強したとします。何のためにかというと、将来一流企業に勤めてお金をたくさん得るためです。そして土地を買い、家を買い、良い車に乗って、人生は大成功しました。物理的にやりたいことは何でもやれる。私の人生は満足だ ──── それが今の時代のステータスです。しかしそれを霊的な目で観れば、自我が膨らんだだけなのです。

我は、思いから湧いてきます。そして、重いものです。これは自分のもの、これも自分のもの、こんなにいっぱい大切なものがあると言って、たくさんの荷物を持っています。しかし、いずれ魂が自らのサイクルを終えて寿命を迎えれば、本住の地へ還らなければなりません。
死を迎えると、魂は肉体から離れ、質量がなくなります。ですから何も執着がなければ、スーッと上へ昇っていき、本住の地、天へと還るのです。ところが、思いというIMG_9708荷物を持っていると、重いですね。肉体を持っていると重くて上へは上がれないですね。ですから私たちは肉体を持って生きている限り、地上に居続けることになりますが、執着の強い思いを持っていると、肉体から離れても上へ上がることができないのです。
地上のことを、地の上と書きます。それは、地の国のことです。そしてそこで、思いが重く濁っていると、「地」の「国」に濁り(=濁点)が付いて「ヂゴク(=地獄)」になります。私たちは毎日を生きていく過程で、その体験をします。まだ寿命が来ておらず、結果も出ていないのに、すでに毎日地獄を生きている人もいるでしょう?
「クニ」をカタカムナでひも解くと、自由(ク)が定着したところ(ニ)という意味です。自由が定着したところというのは、現象をもらい、そこから学ぶことで、自我から解放されて、自由自在に変化できるということです。変化できるということは、囚われや執着がなく、常に人生の次へのステップを踏んでいく軽やかな生き方のことです。本当の「クニ」に生きるとは、地球の上でそのように生き、変化をくり返し、成長することです。そして、地球に生きる私たちの本当のふるさとは、天の国です。

「オモイ」をカタカムナで観てみましょう。
「オモイ」とは、モヤモヤと輪郭のはっきりしないもの(モ)が、六方向(前後・上下・左右)に拡大・収縮した(オ)位置(イ)、ということです。それが「オモイ」、つまり思いです。よくわからないものが拡大・収縮しながらそこに存在しているということです。どこか不安な感じですね。
それに対して「カルイ」という言葉があります。「オモイ」は重くなって沈んでいるという特別な状態を感じますが、「カルイ」をカタカムナでひも解くと、すべての現象化の根本エネルギーである宇宙最極小微粒子(カ)が継続をしている(ル)位置(イ)です。つまり、宇宙の一番元のエネルギーが、そのままの状態でい続けるということです。それは、もっとも純粋できれいな状態です。ですから、同じ「思い」でも、「オモイ」か「カルイ」かでまったく違うのです。
私たちは人生を歩む中で、それぞれの魂にふさわしい思いを持ちます。そしてその響きを発することで、それにふさわしい現象が起き、その現象が自らに返ってくることによって、自分自身が発した思いに出会うのです。ですから、人生が重いのか、軽いのかは、あなたの心次第です。

それでは、次のスライドを見てみましょう。

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木の花ファミリーでは、死ぬことを「出発(たびだち)」と言います。そして亡くなった人のことを、「出発人(たびだちびと)」と言います。これは木の花でつくった言葉です。お葬式のことは、「出発式(たびだちしき)」と言います。
一昨年の年末(約1年4ヶ月前)、メンバーのきょうこちゃんがガンで生死の境をさまよったことをきっかけに、自分はどのような出発を迎えたいかということを、メンバー一人ひとりにアンケート調査をすることになりました。数年前にも一度やっていますが、メンバーたちは、きょうこちゃんのお陰で死を身近に考えるようになり、改めてその機会を持ちました。

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一般的なお葬式は別れを悲しむものですが、木の花の出発式は、出発つ人が人生を終えた卒業式のようなものですから、祝福をする場です。亡くなった人の肉体は自然世界の循環の中へと出発ち、魂は元の本住の地へと還っていきます。

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多くの人は、死ぬことを人生の終わりと捉えます。この世界だけを見ていればそうなりますが、生死を超えた世界観で捉えれば、一区切りの人生が終わるということは、次の人生の始まりだということなのです。
その時に、肉体と魂の出発は別々です。私たちは、肉体と魂の縁によってこの世界に生まれてきます。生きている限り、肉体と魂は常にセットになっています。肉体は、宇宙が存在する限り、永遠に自然の中で循環し続けるものです。ですから、肉体に死はありません。
その常に循環し続ける肉体を、ひとつの生命として束ね、つなぎ止めているのが魂です。肉体の中に魂が入っている限り、肉体は新たな原料を常にこの世界から受け取りながら、古くなったものを排出してこの世界へ還していくという、循環の中にあり続けます。肉体は、毎日入れ代わっています。ですから、瞬間瞬間、生死をくり返しているとも言えるのです。
やがて生命としてのサイクルが終わり、魂が抜けると、それまで肉体を構成していた原料はその束縛から解き放たれて、自然世界へと還っていきます。そこでは、何もなくなるものはありません。宇宙の法則のままに、変化変容変態をくり返していくのです。
地上世界を生きるための縁が切れた、つまり寿命を迎えた魂は、肉体から離れ、それぞれの魂にふさわしい次元へと還っていきます。その魂が純粋で、軽いものであれば、本住の地へ還るでしょう。しかし、いろいろな執着や思いを持っていれば、重くなって、地上に留まることになります。その魂は地の国で汚れて生きることになり、地獄を生きることになるのです。

そういった生死の仕組みを理解した木の花ファミリーの人々に、自らの出発式はどのようにしてほしいかというアンケートを取りました。とても豊かな時間をみんなで楽しみました。私たちの魂の歩み(人生)は、宇宙の法に基づいています。しかし今の社会を生きる人々は、自らの概念によって様々な形で死を捉えているため、それぞれの個性を尊重するという意味で、メンバーの意識を調査しました。その結果、統一するべきものは統一し、個々の意志を尊重するべきものは尊重するということで、このアンケートを取ったのです。

これが、アンケートの具体的な内容です。

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このアンケートは、遺書です。②については、日本では、基本的に火葬をすることが前提になっています。僕の昔の希望は、死んだらそのまま畑に埋めて、その上に作物を作ったり果物の木を植えてみんなで食べるというものでしたが、耕していたら足が出てきたなんてことになったらまずいですから(笑)、とりあえず火葬をしてもらいます。
③は、その後にどのように出発人を祀るかについてです。それから④は、遺産についてです。遺産と言っても、基本的には木の花ファミリーは「自分のものはみんなのもの」という意識ですが、個々の人間関係によっては特殊な事情のある人もいますので、その場合はここに書いてもらいました。⑤については、ファミリーは基本的に全員出発式に参加しますが、その他に、この人は必ず呼んでほしいという人がいたら書いてください、ということです。
その下の治療方法についての部分は、寿命があるうちは病気になっても治りますが、寿命が尽きる時になる病気もあります。それを感じた時に、その治療方法をどうするか。例えば少しでも寿命を延ばすのか、それとも治療をせずに死を待つのかといったことについては、本人と周りの人々で協議をしていくということです。それから日本では臓器移植や検体も募集されていますから、そういったことについても本人とファミリーで死ぬ前に協議し、どうするかを決めます。

いさどんの考えでは、臓器提供は基本的にしません。なぜなら、人は生まれてきたら、充実した人生を送り、その先に潔く死を迎え、未練を残さずにサッと逝く。臓器移植に頼って生きることにすがるようなことはしてほしくないので、臓器提供はしないという考えです。
きょうこちゃんは寿命があったので、血液をたくさん輸血しました。同時に、彼女自身が元々持っていた血は、ほとんど外へ出てしまいました。僕はそれを、きょうこちゃんのガンを作った心が、血液と共に外に出てきれいになったのだと思っています。輸血でまた別の悪いものが入ってくる可能性もありますが、少なくとも、きょうこちゃんの場合は輸血が良い結果をもたらしたと観ています。
臓器提供を受ける前と受けた後で、人格が変わるという話も聞くことがあります。

なおやくん:
5年前に、心臓移植を受けたアメリカの黒人の少年のドキュメンタリーを観たことがあります。彼は心臓病で、移植を受ける前は家で本を読んでいるようなおとなしい少年でベジタリアンでしたが、移植を受けた後は活発になって外で遊ぶようになり、しかも肉食になったそうです。

いさどん:
私たちは、自分の魂にふさわしい肉体のパーツを持っています。その魂の汚れが臓器に反映されていたり、逆に美しい魂であれば臓器もまたそのように作られます。ですから、臓器移植を受ける場合にも当たりはずれがあるということも言えますね。人格を変えたければ、大量に輸血をしたり臓器移植をすれば変わるかもしれませんが、当たりはずれがありますからやめておいた方がいいでしょう。

木の花ファミリーでは、このアンケートをもって遺書とします。ですから亡くなった時にも、ここに書かれた本人の意志を尊重します。こんなものを用意していると、何だか楽しくないですか?書いてみたくなりませんか?(笑)ファミリーのみんなも、とても楽しんでいましたよ。そしてこれは、ずっと同じままとも限りません。年月が経つにつれて意志が変わっていく場合もあります。ですから5年に1回ほどアンケートを書き直す予定です。

では、現代社会の死の現状を見てみましょう。

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日本人の死因の第一位は、ガンです。そして若い人たちの死因の一位は、自殺です。興味深いですね。時代が変化していく時のつなぎ役となる天秤座世代(1971~1983年生まれ)と蠍座世代(1984年~1994年生まれ)の人々に、それが多く現れています。自殺する前は、ニートや引きこもり、うつ病であった人が多いということも、時代を表しています。これは冥王星が示す時代の周期と連動しているのです。

先ほどきょうこちゃんの血が入れ替わったという話をしましたが、体質が変わると、心が変わります。逆の観方をすると、ネガティブな人は、体質が悪くなるようなものを食べたり、病気になるような生活を好んでいるということです。お酒をたくさん飲み、ジャンクフードをたくさん食べて、元気な人もいますね。それはエネルギーが強いということですから、エネルギーがあるうちはそれでいいのですが、エネルギーが衰えた時に、その反動が一気にやって来ます。一方、「あそこが悪い」「ここが痛い」と四六時中病を抱えている人は、エネルギーを少しずつ消費しますから、意外と長生きをしたりするのです。
いずれにしても、それはどちらも良い人生とは言えません。大切なのは、そういったことをよく理解し、自らの精神状態と、そこから来る食生活や習慣をコントロールできる人であるということです。そうすれば、人は常に健全な状態で生きられます。

かなちゃん:
「病は気から」ということについて聞きたいです。私は真学校に来てからずっと風邪を引いているんですけど・・・

いさどん:
あなたの質問は、病というものをネガティブに捉えていますから、悪いことが起きているというように考えていますね。これまでも学んできましたが、病気というのは浄化作用でもあり、それまで自らが生きてきた結果を形で示してくれているのですから、チャンスでもあるのです。真学校で学んでいる間に熱を出す人がいますが、大人でも、新しいものが自分の中に入ってくると、知恵熱のように、それに適応するための症状が出たりするのですよ。「病は気から」と言いますが、病気にもネガティブなものもあればポジティブなものもあるということです。

むらちゃん:
そうか!「病は気から」というのはマイナスのイメージでしたけど、気には、プラスの気もあれば、マイナスの気もあるのですね。

いさどん:
病気は、時には治療することも必要ですが、病気を悪いものと決めつけると治療にばかり走るようになります。病気になったことの意味を探る心を、自らの中に持つことです。病気は、私たちに意地悪をするために起きるのではありません。目的を達成すれば、去っていくのです。そういった認識のもとに、病気と付き合っていってください。

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過半数の人が「ある日突然、心筋梗塞などで死ぬ」を選択していますが、何も心筋梗塞にならなくてもいいと思いませんか?心筋梗塞になるということは、体に欠陥ができるまで気付かずに、生きているということです。現代の人々はこういったことが主な死因になっているから、その死に方を選択肢として選んでいるだけのことで、それは良い死に方とは言えません。
私たちは、充実した人生を生きた結果、完熟して死を迎えるということを学んでいます。木の花ではそれを「ピンピンコロリ」と呼んでいます。死の間際までピンピン生きて、コロリと逝くということです。この場合の「ピンピン」とは、いつまでも二十歳でいるという意味ではありません。その年齢にふさわしい状態でいるということです。年を取ると肉体的には不具合が起きることもありますから、この場合は常に心がピンピンしているということです。
このアンケートの結果では、約3割の人が、「病気で多少寝込んでもいいから、少しずつ死に向かっていく」を選択しています。これも病気でじわじわ死んでいくわけですから、イメージとしては良くはありませんね。できれば最期まで健康でいたいものです。

死後の世界については、4割の人々が「ない」と答えています。これについて、考えてみましょう。
私たちは地球生態系の循環の中にいます。循環とは、回っているということです。それを真ん中で区切り、上の世界を見える世界、下の世界を見えない世界とします。見える世界を生き、見えない世界へ行って、また見える世界に帰ってくると、それは循環していると言えます。
もうすぐ、お昼になります。そうすると皆さんは、昼食を取りに行きますね。そして食べ物を見ます。その目に見える食べ物を食べると、それは体の中に入って、見えなくなります。そしてその見えなくなった食べ物のエネルギーは、私たちが動くために使われます。目に見えていた食べ物が、体の中へ入って見えなくなると、今度は形を変えて、エネルギーとして私たちの体の動きとなって現れるのです。その動きは、熱となって放出され、自然界へ還っていきます。もしくは汗となって自然界へ還ります。或いはトイレへ行けば、排泄物を出しますね。そこでは、体の中に入って見えなくなったものが、再び見えてきます。それも自然に還れば、分解されて散らばっていき、形を変えて、見えなくなります。
つまり、すべてのものは、見える状態、見えない状態、見える状態、見えない状態というように、ひとつの円の中をぐるぐると回っているのです。その円運動の中心にトキ軸が立ち、そのトキ軸に沿って進んでいくということは、円運動はらせん運動であることがわかります。

今は食べ物を例にしてお話ししましたが、私たちの命の仕組みも同じようになっています。自然生態系自体も、この生命ネットワークの中で輪廻しているのです。宇宙の構造は、トキ軸を中心としたらせん運動です。それはすべてが輪廻しているということです。
今、日本人全体の中で輪廻を信じている人は全体の約3割です。ところがなぜか若い人たちの間では、輪廻を信じている人が増えていますね。これは、時代が変わってきたということでしょう。
木の花では、単に想像で輪廻があるという話をしているのではありません。宇宙の構造や、地球生態系の構造など、私たちの毎日の生死の仕組みを、マクロからミクロまで観ていくことで、この世界は輪廻していることが自ずと観えてくるのです。

キリスト教では輪廻はないと言われています。しかし原始キリスト教では、輪廻思想があったのだそうです。ではなぜ輪廻思想がなくなったかというと、ローマカトリック教会が免罪符を発行するようになったからです。免罪符とは、どんな行いをしても、それを教会から購入すれば罰を免れるというものです。人々は何か悪いことをすると、そのことに対して神の前で懺悔します。その罪を免除するための札を作ったのが、免罪符の始まりです。それによって教会は莫大な資金を得るようになりました。宗教のもっとも罪の部分です。そしてその結果、輪廻思想との矛盾が生じました。悪いことをして魂を汚しても、お金を出して免罪符を買えば、きれいになれるというのです。免罪符とは、云わば天国への偽りの切符です。
しかし輪廻の仕組みの中では、人間が生きた結果、汚れていれば重くなり、天へは昇れません。きれいになれば軽くなって、自ずと元の場所(天界)へ還っていきますが、汚れが付いていればまた戻ってきて、もう一度きれいにしなければなりません。そのようにこの世界の実体は、どこを切り口に捉えても循環(輪廻)しているのです。
この仕組みは、大元の宇宙の法に基づいています。そしてその法則は、すべての事象に遍満し、現象化されているのです。ですから、私たちが常に日々出会う出来事を通して、生きること、死ぬことには、その法則がしっかりと反映されているのです。

免罪符によってカトリック教会は大変な財産を得て、輪廻という捉え方を抹消しました。そのようなひどい教えになったことで、後に宗教改革が起こります。そしてプロテスタントが誕生しました。
こういった、宗教がこれまでに行ってきたことを観ていくと、宗教がいかに人々を縛り、そして差別を生み出してきたかということが観えてきます。宗教は、優れた教祖がいて、そこに信者たちが群がるという関係をつくりました。聖人と呼ばれる人々は、その仕組みを利用して、支配の側にい続けるのです。それが組織となれば、階級が生まれます。そして信者たちは、免罪符を買ったり、教えに縛られていくのです。
宇宙の法が正しくこの地上に降ろされるようになれば、宗教はなくなることでしょう。しかし今は、そうではありません。宗教は、これを買えば幸せになりますよ、名前を変えれば幸せになりますよ、と言いますが、それで幸せになってはいけないのです。幸せを勝ちとるためには、幸せになるような人でなければならないのです。そして、幸せになるのにふさわしい生き方をした結果、幸せにならなければいけないのです。そうであればこそ、人々の人生に矛盾は発生しないのです。
この世界はすべて、その法則のもとにあります。ということは、それはどこででも実践できるということです。逆に言うと、ここでダメだったからと言ってどこか他の場所へ行けば良くなるのかと言ったら、そんなことはありません。その人の人間性が現象となって現れるのですから、不調和な自分自身を変えない限り、どこへ行っても不調和な人生を生き続けることになるのです。
宗教は、私のところが最高ですから、私のところへ来たらいい人生を生きられますよ、と言います。どの宗教もそうです。ここへ来たら救われますよと言いながら、互いに争っているのです。

誰も、一度死んでまた同じ世界に戻ってきた人はいません。テレビのリポーターのように、向こうの世界はこうでしたよ、と教えてくれる人はいないのです。
そこで、世界観を大きく広げてみましょう。私たちは生まれて、生きて、死にます。死ぬことによって、また生まれてきます。時は一方通行に流れており、そのトキ軸に沿って私たちは生まれ、後から生まれてくるものたちを迎えます。そして私たちが死んでいく時には、後から生まれてきたものたちが次を担います。それが宇宙の構造であり、私たちの体の仕組みもまた、同じなのです。

チェンフェイ:
霊と魂は、どう違いますか?

いさどん:
魂は、私たちを構成する一番の元にあります。これは、全体の種です。そしてその種をもとに、全体の設計図ができます。これが霊です。さらに、その設計図をもとに、ここまでが肉体の範囲だということを示す、見えない外枠ができます。これを幽体と言います。そしてその幽体に沿って物質的に表現されたのが、肉体です。

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肉体は幽体という輪郭に基づいて、現象化されています。ですから、例えば片腕を切り落としてなくしたとしても、元の輪郭である幽体は残って形成されています。そして、肉体がなくなって見えなくなり、幽体と霊体だけの状態で存在しているものを、幽霊と言います。
肉体は幽体に基づき、幽体の中に霊体があり、霊体の中に魂があります。ですから、チェンフェイの質問の「霊と魂はどう違うのか」ということについては、霊の中に魂が入っているのですから同じであるとも言えますが、種と設計図という捉え方をすれば、別物です。

この、種である魂と、設計図である霊体は、光でできています。光でできているのですから、それはもっとも理想的で、完璧な設計図です。ところが、この霊体と幽体の間に、カルマ(=業)が付くのです。それは太陽系で言えばちょうど、内惑星である火星と、外惑星である木星の間に、小惑星帯があるようなものです。そこにカルマが漂うのです。そしてそのカルマが、あなたらしさを表現するのです。
魂だけの状態になれば、本来誰もが美しいものです。では、自分を磨くとはどういうことでしょうか。それは、カルマを取り除くというよりも、カルマそのものを美しくしていくということです。例えばカルマを、石だとしましょう。その石の一つひとつは、とがっていたり、汚れていたりします。そこで、人生という洗濯機の中で、肉体までを含めた魂の入れものをガラガラと回してあげましょう。そうすると、カルマ同士がぶつかり合い、丸くなって、汚れがとれていきます。私たちはカルマを持って生まれ、人生という洗濯機の中でそれを洗い、自らを美しくしていくのです。人生は洗濯機、出来事は界面活性剤です。それで魂を磨くのです。

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ここは、とても大切な部分です。これまでの宗教は、人の心を安定させるためのものでした。それは、婚姻制度が地上に降ろされたのと同じようなものです。人々の欲望を放っておくと暴走してしまうので、その欲望を枠の中に収めるために、それが必要とされた時代があったのです。

しかし今、21世紀に入り、私たちは新たな時代への扉を開きました。これから求められるのは、人々を目覚めさせるものです。その目覚めとは、一人ひとりが個々の魂にふさわしく、オリジナルな役割を持っていることに目覚めるということです。それは、これまでの宗教のように、信者を既製品のようにして統率し、組織を運営するようなものとは違います。私たち一人ひとりがオリジナルに目覚め、自らがこの世界を担っているのだという意識のもとに、社会が健全に循環していくための役割を果たしていくということです。

それは、多種多様なものがそれぞれの役割を果たしながら、全体が調和しているという姿です。それがこの大宇宙の姿であり、銀河の姿であり、太陽系の姿であり、地球の姿なのです。その末端を担っている我々人間は、その仕組みを理解し、一人ひとりがその法則に則って目覚める時が来たということです。

 

「21世紀の死生観・2」へ続く〉

 


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