知識として学習しても 人間性は変わらない

2月25日の開講から、間もなく2週間。真学校前半最終日の今日は、講座開始前にある出来事がありました。

今年の真学校は、受講生からも積極的な発言があり、講座中はとても賑やかです。でも、発言しているのはほとんど、前の方に座っている受講生だけ。いつの間にか受講生の席も固定化されて、毎日同じ席に同じ人が座るようになり、発言もほとんど同じ人たちがするようになっていました。
そして今朝、いつも後ろの方に座っていたジョイが、最前列の端の席に座りました。すると後からやって来たかくちゃんが、そこはいつも自分が座っている席だからどいてほしい、と言ったのです。かくちゃんが「私は目が悪いので、一番前の席でないとスクリーンが見えない」と言うので、他の人が「では、一番前の他の席に座ったらどう?」と言うと、「他の席だとホワイトボードから遠くなってホワイトボードが見えなくなるから、この端の席でないとダメ」とかくちゃん。
そのやり取りを聞いていたいさどんは、「あのね、肉体の目が見えなければ、心の目で見ることもできるんだよ」と伝えましたが、かくちゃんは頑として譲りません。結局ジョイは、最前列の他の席に座ることになりました。

そして講座開始の時間になり、いさどんが話し始めました。

今日初めて、一番前の席に座ったジョイ(右)
今日初めて、一番前の席に座ったジョイ(右)

 
いさどん:
僕は昨日、ジョイさんと面談をしました。そして彼に、ある提案をしました。

あなたは、自分の殻を破らないから、道が開かれません。これからも、あなたは人生の中でたくさんの課題に出会うことでしょう。それはあなたの人生ですから、あなた自身が乗り越えていくものです。今までの人生で道が開かれなかったとしたら、それを切り開いていく力を身に付けなければなりません。
しかし、今のあなたの姿勢のままで生きていくとしたら、これからも人生の道は開かれないでしょう。今、自分の中に在るものを外に出さなければ、新しいものは入って来ないのです。

多くの人々は、何か新しいものを知識として勉強し、それを覚えれば、自分の人間性が変わると思っています。しかし本当は、新しいものが自分の中に入ってきたら、それを知識として覚えるのではなく、腹に落とさなければいけないのです。腹に落ちると、それは腹から自ずと湧き出てくるようになります。そしてそれが、自らの新しい考えになるのです。腹に落ちるとは、そういうことです。

そこで僕は、彼に提案をしました。
あなたは知識を聞いて学ぼうと思い、情報を得ています。情報を、知識として得ている状態の人は、それが腹には入っていきませんから、どれだけ情報を得たとしても、その先も自分自身が変化することはありません。そこで、あなたはいつも後ろの方に座っていますが、これからは前に座り、発言をするようにしてください ────
そうすることで、ジョイさんが変化していくことを提案したのです。

他にも、自分の中に在るものを出さない人がいますね。しかし、その中の一人が前に来て、出すようになると、ここ全体の空気が少し変わります。物事が動きだします。そして、「変わる」ということは、宇宙の法則なのです。
ジョイさんには、昨日そういう話をする機会がありました。そしてここ全体の空気を変えるためにも、あなたは前に来てくださいという提案をしました。それはジョイさんのためであり、全体の空気を変えるという、全体のためでもあります。そして、それによって何か新しい空気がそこに発生するだろう、という予測をしていました。

これまで、いろんな学びをお話ししてきましたが、常に語っていることは同じです。私たちの生きる宇宙は、調和し、循環しています。調和し、循環しているということは、一つひとつのものが役割を果たすことによって、全体が回っているということです。その連鎖によって全体が運営され、また、全体が循環することによって、ひとつのものが生かされるのです。
ですから、この世界で大切なことは、「利他」ということです。他者のために自分がいる。それを利他と言います。それが、自分がこの世界で命をいただくことの原則です。

しかし今、この世界にはそれが欠けているから、皆さんにこの話をしています。何が言いたいかおわかりでしょう。自分のことを最優先する人は、人が変わりません。自分を犠牲にしてでも他者のために生きるからこそ、その人の人生は美しくなるのです。
自分を犠牲にするなんて、かわいそうなことのように思えるでしょうか。しかし、自分を犠牲にすると言うことは、自分を手放すということです。そうすると、天がその人を活かしてくれます。これが尊い生き方です。

そんなことはこれまでも、宗教や道徳など、いろいろな場所で語られてきました。小学生でも学んでいます。しかしそれは、学習という、知識としての学びなのです。ですから世の中に、そういったことを本当に理解している人はほとんどいません。それは、頭を回転させる学びだからです。自分のことを優先し、損得を計算するための学びになっているのです。
しかし本来学びとは、腹に落とす必要があります。腹に落ちれば、人は皆、良心というものを持っています。良心は、自らの価値を高めるためにあるものです。腹に落ちれば、良心を元にして、自らの考えや行動が湧いてきます。
自分の考えを正しいとして歩み、知識を得て得をしようとすれば、それは愚かな人間を創り、愚かな社会を創ります。皆さんがこの1ヶ月間を通して、最終的に何を持って帰るかは、それぞれの自由です。しかしその結果は、その先の皆さんの人生に反映されていきます。これは、伝える僕の話ではなく、皆さん自身の価値の話なのです。

ちょうど今日、真学校の前半が終わります。いい区切りの時だと思います。何でもそうですが、私たちはこの世界に生かされているのですから、どんな時にも「頂きます」という精神で生きていくことが、正しいことを身に付け、価値あるものとして生きていくことになるのです。

この学びを、本物にして帰ってください。

 

 


25日目午前「死生観」~ 死と一体となって、生きる

1ヶ月間の真学校、全講座の集大成とも言える死生観の講座をお届けします。


いさどん:
皆さんは「1ヶ月間の真学校」でたくさんのプレゼンテーションに出会いましたが、最後のプレゼンテーションがこの「死生観」です。これで情報の洪水からやっと解放されるかと思うと、おめでとうございます(笑)。
ただ、私たちが日々を生きるということは、実は情報の洪水です。私たちが1日を生きる時、「どちらへ行くか」という選択を常にしています。人間は常に選択をする生き物です。一日におよそ3000回の選択の機会があると言われています。それが自らの意思であり、自動的にスムーズにいくタイプの人もいれば、どれも迷い、抱え込んで、悩みながらいく人もいます。ただ、どんなに迷っても、明日は来ます。タイムリミットが来れば、それは積み残していくことになるのです。たくさん積み残していく人もいれば、自動焦点のようにスムーズにものごとを選択していく人もいます。そしてどのような選択をしていったのかによって、人生の結果が訪れてくるのです。

積み残しをたくさん持っている人は、きっと重い人生を生きていることでしょう。逆に、自動焦点のようにスムーズに選択できる人は、よく味わっていない分、充実していないかもしれませんね。自らの人生をどのように表現していくかは、それぞれの持っている精神性によって変わってきます。そしてすべての人は、その人にふさわしい人生を送っていきます。その最終章が、「死ぬ」ということです。

生死ではなく、「死生観」ですから、死んで生きると書きます。宇宙の原理は、相似形であり、対向発生であり、すべてのものが陰陽で成り立っています。陰という奥にある見えないものから、陽である現象が現れてきます。私たちが生きている世界から生死を捉えると、生きていることが前提となり、その向こうに死があると捉えられますが、それを客観的に捉えたら、私たちの解釈で言う死の世界の方が、現象世界の元にあるのです。その世界に存在することを、死と言っていいのかどうか。それを、私たちが現象界の側から捉える先にある不毛なところと解釈してしまえば、死の世界とも捉えられるのでしょう。

死という字を分析すると、どのように捉えられるでしょう。
「タ」と「ヒ」。「タ」は分離独立、そして「ヒ」は秘かな始まり ──── つまり、秘かに分離独立して立つ=すべての始まりという意味でもあります。一人の人間が生きて、その終わりを死というとしたら、その生をリセットした次に来るすべての始まりということになります。どちらにしても、「死は始まり」というのが結論ですね。

さて、私たちはどこへ向かって進んでいるのか。カタカムナ的世界観、そして、木の花ファミリーはなぜこの生き方をしているのかについてお話ししたいと思います。

スライド1

いさどん:
「21世紀の死生観」とありますが、21世紀でなくとも、人は生き死にを繰り返しています。生きて死んで終わりではなく、また生まれて生きて死ぬ、そしてまた生まれて生きて死ぬを繰り返していくのです。私たちは、生を単純に捉えると、生きている時には「死にたくない」と思うものです。そこでは、死が恐怖になっているのです。しかし死が恐怖だとしても、私たちは常に死に向かって確実に近付いています。なぜだかわかりますか? ──── そう、明日が来るからです。
もしも僕が10日ほど時を止めたい、と思っても、世界はその思いをまったく聞いてくれません。それは、時が生き物だからです。そして私たちは、その生き物の一部として存在しているからです。時が生き物という解釈は、時が常に循環し、変化変容変態を繰り返す宇宙の基盤となるものであるからです。これは、私たち生命の共通した乗り物とも捉えられます。
この時という乗り物に乗らないものに、私たちはこの世界で出会うことはできません。この世界の中で、すべての存在は固有のサイクルを持ち、時と共にそれぞれのサイクルを刻み、連動し、ひとつの時の上に存在しています。そのサイクルとは、らせん運動です。

皆さんはこの1ヶ月間を通し、農、食、医、経済、環境、防災、そして性など、様々な切り口を通して世界観を学んできましたが、そのすべてが行きつくところが死生観です。

この講座のテーマは、広い世界観で生死を捉えることです。狭い世界観で生死を捉えると、死のイメージは常にブルーなもので、「死にたくない」という発想につながります。しかし、明日は必ずやって来ます。私たちが生を通して時を刻み、1日生きるごとに、確実に死は近付いてくるのです。ところが人は、「死にたくない」という想いに追われ、毎日を生きています。死を意識しないで生きていても、どんどん死は近付いてくる。
では、死が近付かないためにはどうしたらいいのでしょう。生きていると死が近付いてくるのですから ──── そう、生きなければいいのです。生きなければ、死は近付いてきません。しかし今現在生きているものが生きなくなるためには、やはり死が必要です。いずれにしても、私たちは死を避けることはできないのです。
そうであるならば、その絶対避けることのできない死を、私たちが生きていることの証として身近に捉え、仲良くしろとは言いませんが、死というものをよく理解することです。理解して生きるのです。理解して生きるということは、いつでも死を快く迎えられるということ ──── 私たちが生きるということは、死が対向発生の先にあり、常に死と隣り合わせであるのです。ですから、私たちは常に死と一体であるということを理解して生きることが肝要です。

死生観とは、死と生を共に捉えることです。生きることが大切で、希望であり、尊いものであるならば、死ぬこともまた大切なものであり、希望であって、尊いのです。現代の人々は、死と生を区別して捉えています。その捉え方は主観的な人間思考であり、客観性がありません。客観性の奥にはさらに、「客観背後」という視点があります。そこに行きつくには、世界観を広げることです。私たちは、生死というものの奥に、物理性と霊性の意味を絡めながら、さらにその奥(客観背後)にある世界の働きによって生かされていることを知るべきなのです。
「生死」という順で捉えると、まず先に、生まれてくることには、生きることの目的が託されていることになります。なぜ生まれてくるのか。生まれてきて、生きることにも目的があり、そしてその先の、死ぬことにも目的があることになります。死とは、この世界に生まれ出る前の、魂の本住の地へ還っていくことです。
毎日眠ることは、面倒ではありませんか?眠ることも、起きることも、まるで強制されているように感じませんか。僕は、現象世界のプールの中でその不自由さを嘆いています。生きるとは、そういった不自由さの中で生きる心の鍛錬の場です。そこからすると、魂の本住の地というのは安定した場です。そこへ行くと、現象世界に生きていた時の自分をじっくりと振り返って観ることができます。ああだったな、こうだったな、次はこうしよう、と、来世のプランを練っているかもしれないですね。そして「よーし、今度こそは!」と生まれてくるのです(笑)。

ようこ:
おもしろいのが、日本語だと「死生観」というように「死」が先に来るけれど、英語では「the view of life and death」というように「生」が先に来ます。

いさどん:
日本語でも「生死」という言葉がありますから、どこで区切って捉えるかということでしょうが、やはり東洋的捉え方だと「死生観」になるのでしょうし、西洋的捉え方だと「生死観」となるのかもしれないですね。

みかこ:
日本語でも、「生死の境をさまよっている」という時は、生きている側から死の方に向かうという捉え方だから「生死」になるね。でも「死生観」は死をどう捉えるかということ。

いさどん:
「死生観」は、死をどう捉えるかというよりも、生死を超えたところで、生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを、冷静に捉えるということでしょう。

めぐちゃん:
東洋は「陰陽」と言うように、まず陰が先にある。

みかこ:
連綿と続く命としての死生観が、自然と身に付いている。

いさどん:
生態系と同じで、私たちが命の循環をどこで区切るかによって、ある時はシマウマだったり、ある時はライオンだったり、ある時は草だったり、微生物だったりする。

エリちゃん:
アメリカのあるコミュニティで暮らしていた時に、初めて日本人の友人ができました。その人はカップルで暮らしていて、いつもケンカをしていたので、ケンカをやめるように伝えると、「私たちはもうずっとこれをやってきているんですよ」と言うのですが、彼らが言っているのは今世だけではなく過去世でもずっとそうやってきたという意味なんです。そういう捉え方があるのかとびっくりしました。

昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加
昨年の受講生であるエリちゃんも、1年ぶりにやってきて講座に参加

いさどん:
魂からケンカしているのでしょうね。出来事の詳細はどうでもよく、日々対立する相手がそこにいるということが生きがいになっている(笑)。けいごくんが理由もないのに不安を感じるというのも、魂から来るもののひとつですね。

スライド2

いさどん:
『「死生観」は多岐にわたる真学校のテーマの中でも、集大成となる根源的なテーマです。私たちが抱える問題の全てが生きていることから発生します。にもかかわらず 「人はなぜ生まれ、なぜ生きるのか、そしてなぜ死ぬのか」といった根本的なことに疑問を持たずに、あるいは曖昧にしたまま、私たちは生きています。』
曖昧にしたまま、問題ごとを抱えている。その問題ごとの原因が何であるかということを追求しない限り、問題ごとが発生し続ける人生になります。

『生命あるものは皆必ず死を迎えます。死について深めることは、生きることの意味を考えることであり、生も死も合わせた連綿と続くこの世界の仕組みを知ることなのです。
世界観を広げ、自らを壮大な宇宙の中の「ひとかけら」としてみていくならば、今まで見えなかった真実が浮かび上がってくるでしょう。』

すべての学びの集大成であり、根源的なテーマであるのが死生観です。我々はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。一人ひとりにサイクルがあり、一人ひとりに存在する理由があります。誰か聖人が出てきて、生きるとはこうである、と、ざっくり決めることはできないのです。
僕は、ひとつの答えを皆さんに提示しようとしているのではありません。誰もが一人ひとりオリジナルな生き方をし、その中でお互いを活性化しあっていくのが、地球生態系そのものの姿です。人間は、その地球生態系の姿に倣っていくのが大切なのです。僕から観たら不十分と思える人も、一人ひとりの歩みのサイクルがあるのですから、そこを理解し、寄り添うようにしています。その先にある答えが何であるのかがわかっていて皆さんを誘導しているのでもなく、それは未来が教えてくれることです。答えを持って誘導するなどという傲慢なことはしません。
主役は、一人ひとりです。一人ひとりが個性的に、生き生きしながら、大切な死をどのように迎えるかということだと思います。

生きているものは、必ず死を迎えます。生の最終段階である死を深めることは、生きていることの意味を考えることです。例えば学校で勉強をするにしても、何のためにこの学校に入ったのかということが明確でなければ、勉強自体を楽しむことができないでしょう。つまり、生きていることの意味がわからなければ、生きることを楽しむことができないのです。そんな状態では、生きることにより、翻弄される人生になってしまいます。
生きていることの意味がわかるとは、答えがわかっているということとは違います。答えは、先に進んでみていただくものです。人生とは、何かの試験のように答えが決まっているのではなく、その時々で現れる答えをいただきながら、どのように生きていくかなのです。
この連綿と続く生命の仕組みを知ることは、生きながら死ぬことを学ぶこととも言えます。最終的には、この壮大な宇宙のひとかけらとして組み込まれ、私たちは宇宙を存続させている立場に立つのです。それを宇宙の側から観れば、宇宙を運営する立場に立つということになるのです。世界観が広がれば、神と共に、宇宙を運営する側にも立てるのです。

スライド3

いさどん:
私たちは、死を「出発(たびだち)」と呼んでいます。去年、木の花ファミリーの死生観を刺激してくれた出来事がありました。メンバーのきょうこちゃんの子宮頸がんが進行して、何度も危篤状態になりました

私たちはとても複雑な人生を生きていますから、死ぬためには心の掃除というか、整理整頓をする必要があります。次のスライドは、昨年木の花ファミリーで行ったアンケートの冒頭の文章です。皆さんも、アンケートに答えるつもりで聞いてください。

スライド4

スライド5

スライド6

いさどん:
有史以来約3000年間、「王の時代」という、権力が支配する時代がありました。その時代、人々の命は、社会の行く末を握っている権力者のもとにありました。社会を束ねる一部の人たちによって、主役の座が担われていたのです。
その後、宗教の時代が始まり、聖人が現れて、優れた考え方や生き方をモデルとして示すようになりました。それが尊い見本のように捉えられ、人々が生きることは既製品化されていきました。
今僕は、この出発アンケートの文章を読みながら、生きることには様々なかたちがあるということを思っていました。ここに『今の社会において、死生観という概念は一人ひとり違うものです』とありますが、人それぞれが持っている価値観によって、生きることも死ぬことも、受け取り方が違ってきます。それは人の数だけあり、それでいいのです。
ただし、たくさんありますが、それらはすべて、共通する器の中に存在しています。共通する器の中に存在しているのですから、それは個性的ではあっても、バラバラで無秩序なものではいけないのです。そこでは、何かモデルを示してもらわなくても、この世界を正しく認識できていれば、それぞれの個性が尊重され、皆が同じ目的を持って生きることは当然なことになるのです。つまり、そこでは何かに強制されたり、見本に倣うのではなく、そこにいる一つひとつの生命が、自らの気付きによって同じ目的へ協同していくという時代の流れのもとにあるのです。それが21世紀に人々が取るべき生き方につながるのです。

めぐちゃん:
人それぞれ価値観は違うけれど、根底には共通したものがあるということ。以前、よしこちゃんが、ユングの言葉に「元型」 ──── アーキタイプというものがあると教えてくれた。表面的には見えないけれど、根底には人類共通の秘められたパターンを有していると。

いさどん:
それは人類共通とも言えるけれど、さらに生命共通、宇宙共通とも言える。それは、末端の一つひとつによって成り立っている。

みかこ:
前から気になっていたのだけど、「精神」という文字には「神」が入っている。この「神」とは何を表しているのか。

よしこちゃん:
「精神」とは、神のエッセンスという意味なのではないかと思う。人間のような精神活動は、動物にはない。それ自体が神の働きを表している。

みかこ:
精神性の高い犬とか、精神病の猿とか、いないものね(笑)。ということは、「精神病」というのはやはり精神を病んでいるということだね。天と通じる心が分断されている。

いさどん:
それはとてもデリケートで精妙な部分にアクセスしている。そこへアクセスできないがためにそうなっているということは、逆に言うと、そこに戻るためのきっかけとも言える。

エリちゃん:
去年の6月に父が亡くなったのですが、この死生観のプレゼンテーションはとても興味深いです。私にとって、葬儀は喪に服すというよりも、祝福のイメージです。私はアフリカ系アメリカ人ですが、父の葬儀の時には、黒い服を着たい人はもちろん着てもいいのですが、私たちは伝統的なカラフルな衣装を着て歌ったり踊ったりして、誰かが「これはお父さんの卒業式だね」と言っていました。まさにこのプレゼンテーションと同じ感覚です。

いさどん:
木の花でも、出発(たびだち)は「マツリ」です。だから、きょうこちゃんが逝ってくれたらみんなで楽しめたのにね(笑)。

めぐちゃん:
「死」という文字の中には、すべての始まりを表す「ヒ」が入っている。始まりの「ヒ」と分離独立を表す「タ」が、横棒の下にあるということは、まだ表には現れない潜象界にあるということを表している。

いさどん:
めぐちゃんにはぜひ、論文を書いてもらいたいですね。
さて、次のスライドは、出発アンケートの内容です。

スライド7

いさどん:
これは遺書を書くのと同じようなものですね。若い人の場合、変わっていくこともあるでしょうから、折に触れてこのアンケートをとり、一番新しいものを採用するようにします。メンバー一人ひとりがどのような回答をしているのかを見ていくのも面白いですよ。木の花ファミリーとは、こんなことをやっている面白い場所です。

スライド8

いさどん:
死というものは、できればソフトランディングするように穏やかに迎えたいものですが、危惧する心や恐れなど、体中に囚われの鎖をつけてがんじがらめになっている人がたくさんいます。がんじがらめになりながら、それでも「死にたくない」と言うのですから、現代人の心は複雑になったものです。

よしこちゃん:
看護師として働く中で、本人は死にたくても家族がNOという場合があり、その方が不幸だと思っていました。本人は苦しくて「死なせてくれ」と言うのですが、家族は「何とかしてください」と頼み、その人の生死が自分を離れて家族のものになってしまうというパターンがとても多いのです。

いさどん:
僕の母が死ぬ時には、家族は「もう何もしなくていい」という意思だったのですが、その意思を受け取らない医師がいて、意思が合わなかったですね(チーン♪)。こちらがもういいですからと言っても、医師は「我々には立場がありますから」と言うんですよ。

みかこ:
医者の役割が、生かすことだけになってしまっているね。

いさどん:
病院の方針でもあるのでしょう。やればやるほど、病院の経営にとってはプラスになりますから。本人にはそのつもりはなく、医師の使命だというのですが、どことなくベースに、ここまでの治療をしてここまでの成果を上げて、という、患者一人当たりに対する売り上げの基準のようなものが感じられるのです。

みかこ:
きょうこちゃんの場合は、逆に医者の方が諦めていたね。

スライド9

いさどん:
受講申し込みのあった人たちの国の死因を表にしてみました。どこからデータを取るかによって順位は変わってきますので、あくまでも情報の一つです。

スライド10

いさどん:
死ぬ時にはあまり病院などでガタガタせずにサッと逝きたい、という人が多いようです。しかし実はこちらの方が往生際が悪いとも言えます。サッと逝きたいというのは、いろいろ考えてしまってそれが辛いからサッと逝きたいということでしょう。寝込んでもいいという人は、それを味わってもいいということですから、むしろ覚悟があるとも言えるのです。
【選んだ理由】として、1の人たちは「家族に迷惑をかけたくない」と答えていますが、そこが大きな勘違いで、そういう死に方をする人は、実は生きている間に既にたくさん迷惑をかけているのです。

みかこ:
一見、1の方が良さそうに見えるけれど、その回答の奥にある心を観ると、実は家族や自分自身と向き合いたくないからということが観えてくるね。

いさどん:
その下のアンケートからは、死後の世界について若い人の方が信じていることが伺えます。愛知県の学生だけがそうなのかはわかりませんが(笑)。戦後生まれの世代は物理的なことばかりを追いかけてきましたが、若い人たちは死に対してロマンを感じているのかもしれないですね。

『死に関して語り合うことは何となくタブー視されている。親やおばあちゃんがこういっていたからそう思っていたなど、確信の持てるものは何もない。死後の世界を信じていない人でも、形式的なお墓参りや、葬儀はするという結果が出ている。』
日本は仏教の国ですから、葬式やお墓参りをしますが、死後の世界がなければそんなことをする必要もなく、ただ送って終わりでいいはずです。東日本大震災から6年が経って、死んだ孫にランドセルを買っている人がいますが、死後の世界を信じていなければそんなこともしないはずです。現代の人々にとって、そこは極めて曖昧なままの状態になっているのです。それがこの世の中の曖昧さを創り出しているとも言えます。

めぐちゃん:
現代人が死を忌み嫌うのは、戦争で大量殺戮が生まれて、そこで大きく死に対する捉え方を変えられたということもあったのではないでしょうか。

いさどん:
戦争では銃を使いますが、確かに引き金ではありますね。では人間はなぜ戦争をするのかと捉えていくと、そこに人間の性質が観えてきます。なぜ戦争をするのかと言えば、自分の家族を守るためであったり、自分を守るためであったり、生きることが目的なのですが、それが自分に特化した都合の良い考えの下にあるものですから、結果的にそこに死が発生するわけです。

みかこ:
かつて「王の時代」には、王の一存で国が動き、民衆は言われた通りにするしかなかった。王の意識がそのまま世に反映するから、王が守りの姿勢なのか、民を大切にするのかによって、世の中も変わっていった。

いさどん:
「宗教の時代」も、例えばキリスト教の名のもとに十字軍が遠征したり、アフリカではキリスト教の名のもとに植民地化や奴隷制度が浸透していきましたね。現代でも、ジハードの名のもとに自爆テロが行われています。現代文明につながる発想が、6500年前に始まった「王の時代」から続いているのです。

みかこ:
太陽の一螺旋の光のピークの時と、現在の闇のピークでは死生観がガラリと変わっているけれど、その起点が6500年前の王の時代から始まっている。ネイティブアメリカンの死生観は「今日は死ぬのにいい日だ」と言って、自ら旅立つ日を感じ取ったりする。王の時代の前まではそういう死生観が息づいていた。王が恐怖に駆られたり自分の命を長らえたいと思えば、自分を守るために民を戦争に使うという世の中になるけれど、それ以前の時代は、みんなで生きていたんだよ。
アマゾンのある先住民族の、興味深い話がある。その民族は、女の子が平均14歳で妊娠して森の中で出産し、産んだ子を育てるか育てないかを精霊と対話して決め、育てない場合はバナナの葉に包んでシロアリの巣に入れて食べてもらう。生まれたばかりの子を人間ではなく、精霊と捉えている。

いさどん:

それは現代人からしたら残酷なように聞こえるかもしれないけど、聖なる生き方をしているということでもあるね。

めぐちゃん:
それはヤノマミ族ですね。自分たちのコミュニティを神に委ねているということでしょう。人が増えすぎてもコミュニティとしてのバランスが崩れるし、子どもを育てるかどうかの決定権が天にあって、全体を運営してもらっている。

いさどん:
生きることは自分達で所有せず、決定権が自然との対話のもとにある。逆に、人工の世界が進むと、生きることの決定権はすべて人間が握るようになりますね。

スライド11

いさどん:
『曖昧な死生観のままに生きています』
とありますが、私たち人類は、これまでに数え切れないほどの死に出会ってきています。にも拘らず、その死を定義することができず、その都度その都度、それぞれの人生観や人間性や社会的背景などの環境によって様々なことが語られながら、ずっと曖昧なままなのです。曖昧であるということは、多様性の世界で様々な死の捉え方があるということであり、それはそれでいいのですが、その奥に、私たちは生まれてきたら必ず死ぬものであり、その死への旅の途中で出会うものの積み重ねが、最終的に死へと旅立つ時の自らの精神状態を構成するものになっていくという基本だけは押さえておく必要があります。それがないまま、ただ迷い、グルグルと考えた末に生まれてきた意味も分からないまま旅立っていく人がいるから、次に生まれてくる人たちもまた曖昧な状態で生まれてくるのです。しかしよく考えてみると、時代がそういうことを要請していたとも言えますね。

よしこちゃん:
私もそう思います。以前、なぜ死がタブーになっているのかを集中的に考えていた時期がありました。現代は死というものが家から切り離され、病院や施設など人の目から離れた場所に委ねられるようになり、死というものを目にする機会がなくなってしまった。死とは何なのかをリアルに体験せずに、ただ病院から連絡を受けて駆け付けたらもう死んでいる状態で、間が見えないからこそ、死が恐怖になっていったのではないでしょうか。
自分も看護師として働く前は、それこそ死んだ後のおじいさん、おばあさんくらいしか見たことがなかったけれど、勤務した先が、お年寄りが多く、比較的自然に死を迎えるような対応をしている場所で、余計なことをしなければ、人間はとてもスムーズに旅立っていくのだということを目の当たりにしました。だんだん眠る時間が多くなっていき、仏さまの顔になっていくのです。そうすると「ああ、そろそろだな」ということがわかり、ソフトランディングしていく。それを見ていたら、死は怖くもないし、人間の終末の過程というのは余計なことをしなければこういうものなんだ、ということがわかりました。

みかこ:
私の母は1年以上管をつながれて生きていたけれど、それがなければもっと短い期間でそのプロセスを経て、早く死んでいたかもしれないね。

よしこちゃん:
体は自然とそのようになっていきます。低体温になって、一種の冬眠状態のようになっていくんですよ。

いさどん:
きょうこちゃんの場合は、逆にみんなで押しかけていってダジャレを言って笑わせて、本人はソフトランディングしようとしていたのに甦らせちゃった(笑)。

めぐちゃん:
両方でしょうね。そういう関係性を持つことをきょうこちゃん自身が選んだわけでもあるから。

いさどん:
僕には思惑がありました。あなたはまだ使えるのにもったいないだろう、こちらはこちらで覚悟はしているが、逝くなら使い切ってから逝け、まだ死んでる場合じゃないぞ、と。

みかちゃん:
きょうこちゃんのことはいろんな角度から捉えることができる。私はきょうこちゃんはまだ寿命ではないと観ていたから、いさどんのように覚悟はしていなかった。だって精神の遍歴がまだ終わっていないから。

いさどん:
逝こうとするものを縛ってはいけない。その後の魂の旅路のことを考えたらね。

めぐちゃん:
その時点できょうこちゃんの人生はきょうこちゃんのものではなくなっていますね。

いさどん:
その人の人生が個人のものではないというのは、豊かなことですね。情にまみれていては醜いものになりますが。
僕はきょうこちゃんをもったいないから復活させるということと、逝った時にはどうするかということを同時に考えていました。だから棺桶も買ったし、骨壺もとしちゃんに焼いてもらいました(笑)。
この物語には続きがあって、きょうこちゃんは復活したら復活したで、もうあの時のことを忘れてしまって元のきょうこちゃんのクセが出てきています。だからもう、死相がまったくないんですよ。元のきょうこちゃんだから。昨日も「あなたはまた性格の悪いところが出てきたね」と伝えたところです。

スライド12

いさどん:
死とは、昨日から今日、今日から明日へと向かうのと同じことです。人生が充実していれば死も充実し、人生が曇り空かどしゃ降りのように生きていれば、死ぬこともそのようになります。すべて自分次第です。

スライド13

いさどん:
肉体と魂とは、見えるものと見えないものですね。魂は陰ですから、見えない世界につながり、さらにその奥の世界にもつながっています。肉体は生態系の構成要素として三次元宇宙にあり続けます。その両方をつなげているのが人間の体であると言えるでしょう。
人間は精神性を持っていますから、そちらの世界へつながっていますが、動物の場合はどうでしょうか。植物はまさに精霊と対話していますね。特徴は自我がないことです。
死を迎えると、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙へ還っていきますが、相応しい異次元宇宙というのは、地獄から、多次元構造の高次元宇宙まで幅広くあり、その幅広い中から様々な段階の魂が、ひとつの時間と空間の下にある現象界へ降りてきているのです。ですからこの世界で生きているということは、ものすごく多様なものを見ることができる、体験ツアーのようなものです。本当に狭い世界観で晩酌だけを楽しみに生きている人もいれば、宇宙を運営するくらいのスケールの意識で生きている人もいます。
死ぬと、肉体と魂は分離します。生きているということはそれが連動しているということであり、両方を感じて生きることができます。そこでどちらにより偏るかによって、バランスを欠くこともあります。

スライド14

いさどん:
この図の中心にある肉体は、現象界のものです。現象界のもとは、地水火風空です。それらは太陽がもとになって、循環しています。人は地とも、水とも、火とも、風とも、空とも循環して生きています。毎日酸素を取り込んでは、二酸化炭素や水蒸気を排出し、それらを取り込んで地に育まれた植物を食べ、水も飲んで排せつしたり蒸発したり、太陽からもエネルギーを取り入れて熱にして、その熱を排出しています。地球生態系を構成する五大要素「地水火風空」といういのちの循環の中で、肉体というのは3次元世界にあり、魂によって束ねられています。魂が抜けるとそれは一気に分解し、この世界へサーッと還っていくのです。その過程に腐敗があったり、発酵があるということですね。

スライド15

いさどん:
先ほどの地水火風空は、この図で言うと横糸です。これは少し意識したら感じられるものです。ところがこの縦糸が、今の人たちにはわかりません。これは霊的なものですから。現代の人たちはこの縦糸を見失っているものだから、よこしまに流れてしまうのです。
潜象界から常に湧き出してくる元の気=生命力が縦糸となり、横の循環が生まれます。横の循環とは、地水火風空とそこから発生する生命のネットワークです。食べることと排せつすることは、命を自らの中に取り込み、また次へと渡していくことであり、そこを小さく区切って捉えれば弱肉強食の世界にもなります。しかし全体をつなげて観れば、命のバトンタッチです。
このネットワークは、柱が立つことによって全体が正常な位置につきます。しかし柱がないと、バラバラにぐるぐると回って無秩序な状態になります。それぞれの生命に固有の寿命やサイクルがあるということは、それぞれに役割分担をするためにあるのですが、それがてんでバラバラでは連携しません。そして自然界が乱れていくのです。

依正不二(えしょうふに)という言葉があります。人間以外の存在を「依法(えほう)」といい、人間だけを「正法(しょうほう)」とするのは、人間だけがこの仕組みを体系化して理解し、その次元の意識を持ってこの世界に生きることができるからです。人間が高次の意識を持つことで、この世界の不具合を修理していくことができるのです。人間以外の存在は、ただ受け取ることしかできません。

みかこ:
動物は四足で、人間だけが二足歩行なのは、やはり人間は縦の軸を持っているから。動物は四つ足で自然の摂理のままに生きている。その横糸と、縦の糸を統合するのが人間の役割なのだけれど、今の人間にはそれができていない。

いさどん:
人間は縦と横の両方を併せ持っています。それが「ヒト」という存在です。

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いさどん:
先祖から受け継いできた縦の糸と、魂の輪廻である横の糸が紡がれて、今のあなたがいます。縦の糸を15代さかのぼると、すべての人の先祖はひとつになるそうです。それをさらにさかのぼっていくと生命の始まりになり、さらにさかのぼると宇宙の始まりになります。さらに子孫の方をずっと未来へとたどっていけば、生命の終わり、宇宙の終わりにまで行きつきます。つまり、今の自分というのは、過去の宇宙の始まりから、未来の宇宙の終わりまでを情報として持っているプロセスとしての存在だということです。
縦糸は物理的DNAの流れです。そして横糸は魂の変遷です。今の自分は、過去の自分の人生の結果として、相応しい惑星の配置のもとに降りてきています。そして今世の結果がまた、来世へと反映されていくのです。そしてそのすべての生に、先祖と子孫がいます。その先祖も子孫も最終的には宇宙の始まりと宇宙の終わりという共通に行きつきます。これらのすべてが、宇宙そのものなのです。
その中で私たちは、現在のポジションを、霊的にも、物理的にも共有しています。よく「先祖が大切だ」とか「我が子がかわいい」と言いますが、では前世での先祖はどうなるのか、来世での子はどうするのかと考えたら、身内は世界中どこにでもいるのです。そうすると、私たちはひとつの命であることがわかります。

それでは、カタカムナからこの世界の生死の仕組みを観てみましょう。

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いさどん:
カタカムナは、人間の智恵の中のひとつの捉え方というよりも、現象界も潜象界も含めたこの宇宙の壮大なドラマを物理的に解析してくれているものですから、人類、特にこれからの人類に対する大きな贈り物であると言えます。ただし、それを学問のように捉えてしまっては、たくさんある切り口の中の一つにしかなりません。
この図はこれまでに何度も見てきましたが、もう一度おさらいをします。私たちが生きるこの現象界は、「見える世界」と「見えない世界」から成っています。目に見える肉体や現象、そして目には見えない思いや心が組み合わさった、陰陽から成る「カタ」の世界です。現代の科学は、この見える世界の中だけで回っています。とても優れたものでありながら、見える世界の中だけに留まっているので、考え方や文化が偏っていき、対立を生んでいます。
その「人工」の世界から「自然循環」になると、見えない世界も含めて循環するようになりますから、現象の世界の奥には、この世界をひとつに貫く法則があり、豊かで美しい多様性ある世界を表現しています。多様性とは拡大して広がるものですが、その無限に拡大して広がっていくダイナミックなこの世界は、実はすべて、一番大本の世界から生まれてきているということを理解したのが「天然循環法」です。見えない世界と見える世界(「ある世界」)という陰陽の背後に、「ない世界」という陰があり、その三層構造によってこの世界が成り立っているのです。これは、カタカムナの世界観があるからこそひも解けたことです。

20世紀までの自然循環の考え方では、人間の行いによってこの世界はいくらでも歪められていきます。今の放射能の問題をどうするのか、今の固定された宗教の概念でイスラム教とキリスト教はいつ調和するのか、いつになったら人々は、すべてはこの宇宙というひとつの枠の中に存在するということを理解するのか。自然循環までの捉え方では、それは永遠に解決されない、とても難しいことでした。
では、この世界のふるさとは一体どこにあるのか。そこで、もうひとつ大きなくくりの「ない世界」までを含めた世界観がなければ、人類は次の時代へ行けないのです。12900年前の光のピークの時代から、太陽の一螺旋の半周を経て、闇のピークを越え、質的転換を起こす時に我々は来ています。だからこそ、今この世界観が必要であり、それが地上に降ろされたのです。
長い間封印されてきたカタカムナを、戦後に出会って最初にひも解いたのは楢崎皐月という人でした。そこから様々な流れがあり、木の花ファミリーはそれを生活に落とすということをしていますが、カタカムナは誰のものでもありません。そしてその奥深さは、これから先へ行くほど深まっていくのだとしたら、誰もがその探求に参加し、深め、表現していくものなのです。それは世界共通のものであり、人類すべてがその世界観の世界を生きていると捉えれば、カタカムナはこれからの人類の進化に生かされることになるでしょう。

その中で、今日は死生観について語っています。このような真理に出会うのも、苦痛を感じるのも喜びを感じるのも、生きていればこそです。何のためにそれを感じているのかというと、その先にはちゃんと死があり、それが終わるとはどういうことなのかというと、質的転換を迎えて次のステージに進むということなのです。
死とは「ある世界」から「ない世界」へと質的転換することですが、現代人は「見える世界」から「見えない世界」へと行くことを死と捉えています。

みかこ:
そこでは質的転換は起きません。

いさどん:
見えると見えないを行ったり来たりしているだけなのです。

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いさどん:
これは、生死の仕組みをみかちゃんが図に表したものです。

みかこ:
この図ではトキ軸が横向きに進んでいます。そのトキ軸に沿い、生きている期間と死んでいる期間を表すトコロ軸がらせんを描きながら進んでいます。見える、見えない、見える、見えない、或いは陰、陽、陰、陽と捉えてもいいですね。

めぐちゃん:
光は電磁波ですが、電磁波が伝搬していく時にもこういう波があります。それぞれの波長の長さがあり、それぞれの振幅という、云わば人生の幅がある。

みかこ:
例えばネズミのサイクル、象のサイクル、微生物のサイクルなど、それぞれに違う。

めぐちゃん:
その波長の長さによって色も変わり、そういうものがその人その人の個性になる。

みかこ:
この図は、誕生、維持、破壊、空を繰り返す宇宙の連なりを表していて、その形が蓮根のように見えることから「蓮根宇宙」とも言います。

いさどん:
蓮根宇宙は、満つれば欠けるこの世の仕組みそのものを表しています。そして蓮根にたくさんの穴があるように、大宇宙の中に無数の中宇宙や小宇宙が存在しています。宇宙が誕生し、拡大していって、意識が統合されていくと再び収縮していって、一点に集約される(蓮根と蓮根のつなぎ目の部分)のですが、そこが「無」であり、潜象界 ──── 即ち「ない世界」です。ここには時がないので、無限とも言えます。そしてそこがまた次の始まりでもあるのです。

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いさどん:
肉体は、自分のものではありません。宇宙の、地球の、生態系の循環の中で、自分という自我を持つ魂が呼び寄せた「縁」なのです。人生でいろいろなものに出会うということは、自身のニーズに周りが応えてくれているということであり、その縁によってすべてが紡がれていきます。この顔立ち、この性質、どこに生まれるのか、どのような家族を持つかということも、すべて自らの魂が引き寄せ、その魂のニーズに応える縁によって紡がれているのです。それはものすごく精妙な世界です。ですから愚痴っていることも、喜んでいることも、すべて縁から成っていくのです。

めぐちゃん:
蓮根も、切ると糸を引きますね。

いさどん:
蓮根が食べたくなったね(笑)。

『生まれてくる目的の一つは魂(霊性)を向上させるためにあります。』
ではなぜ向上させるのかといったら、宇宙は変化変容変態を遂げた結果、進化するために存在しているのであり、退化するという目的はないからです。
遥か昔、神様は光そのものであり、自分を認識することができませんでした。そこで神様は、自分から遠いところに闇を置き、そこから光の方へと戻ってくる道を創りました。光に近付けば近付くほど、それは希望となり、喜びとなります。逆に、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみを体験することになっていくのです。
今、人類は、その闇から光へと帰る過程にいます。そして完全に光へと帰ったら、今度はまた闇へと向かう道を歩み出すのです。その時には、みんなで積極的に苦しみましょう(笑)。そういう時もあるかもしれないということです。

『現象界(自然界)は個に独立したものの生命ネットワークです。従って、個々の生命は自らに偏っています。』
ですから、自然界では偏っていることはOKなのです。その偏りが個性となり、それがネットワークしていけばいいのです。ネットワークせずに独りよがりになると、独りよがりのものたちが作る現象が展開するようになります。そこに不調和が発生して行き詰まるようになっているということは、ネットワークすることが目的であり、そのネットワークを断ち切ると問題が発生するようになっているということです。
ですから、目には見えませんが、私たちには確実にそこに行けるような一方通行の道が用意されているということです。ですから、それを無視してそこに行かなければ、痛みが発生するようになっているのです。何という心憎い配慮でしょうか。

みかこ:
偏っていてくれないと、困るね。偏っているからこそ、光は光、水は水、空気は空気の働きができ、この世界が循環していく。そこで個々が個性を持ち、一度は分断したからこそ、つながる喜びが発生する。つながるとこんなにうまくいくのか、ということが体験できるようになっている。

いさどん:
そういったものの象徴的なものが原爆です。核融合という光の発信元は、我々三次元生命の元となる仕組みです。それを武器として使えばあのような究極の破壊の世界ができるのです。あの仕組みはすべての三次元生命の源であり、聖なるものの根源であるはずなのに、使い方を誤れば破壊の権化と化すのです。

人間の意識が狭い時には、ある村の中で一生を終えることもあります。自分の所属はその生まれた土地にある。それが、世界観がどんどん広がると、日本国、アジアと広がって、それが世界になり、地球になり、21世紀は人類の意識が宇宙にまで広がり、宇宙人として生きる時代がやって来ます。これから、人間が宇宙の運営をどうするかという時代が確実に来るということです。

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いさどん:
死ぬということは、寿命が尽きることです。人間の手の内にあるのは、その与えられた寿命をどう生きるのかということです。人生の中身については、個人の意思が尊重されています。
すべてはその人の裁量の中にありますが、裁量の中にあるにしては、けっこう方向付けがされてもいます。それが何かと言ったら、独りよがりで独善的に生きれば衝突が起き、不調和に生きれば苦痛が発生します。バランスを欠いていれば、必ずそのバランスに相応しく、問題ごとが発生するようになっています。つまり、バランスを整えなければいけないようにものごとが起きてくるのです。私たちの人生に自由を与えているという割には、神様は結構介入していますね。
実は、神様は完璧に介入しています。自由を与えているというのは、神様は自分から遠く離れたところに闇を置き、そこから人間が光の方へと戻ってくる時にどのような過程を経るのか、その振幅の幅については自由が与えられていますが、闇の側から光の方へと戻ってくる道については、完全に一方通行なのです。神様は自由を与えていると言いながら、ものすごく束縛しているでしょう?なぜだかわかりますか。

としみちゃん:
すべて神が創ったものだから。

いさどん:
そうです。この世界はすべて、神様のマスターベーションです。私たちも神様の心の中にあり、神様そのものなのです。神様がぶわーーっと膨らませた心の一部なのですよ。ですから、この世界のあらゆるところに「カ」が遍満し、神の息吹が満つっているのです。それがぐーっと収縮して統合すると、また神様一人の世界です。それをぶわーーっと膨らませたものが多様性に見えるだけで、膨らんだり、収縮したり、これは宇宙の呼吸であり、すべてが神の実体です。
ですから人間の自由というのは、お釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空のようなものですね。それが神様と私たちの実体であり、私たちが神様に向かって「あなた」と呼びかけること自体がおかしいのです。私たち自身も、「あなた」の内にある一人だからです。

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いさどん:
この図は、宇宙の誕生から消滅までの神の一呼吸を表したものですが、まさしく目のように見えますね。目は英語で「アイ(eye)」ですね。

みかこ:
目もアイであるし、図の中心にいる自分自身も「アイ(I)」だね。

めぐちゃん:

自分という存在も、相手があればこそですよね。相手、つまり「アイ」の「テ」ということ。

いさどん:
私たちはこの宇宙にあって、自分という狭い枠に囚われていれば、その意識は見える世界の中だけを生きることになりますが、囚われを外せば、物理的には見ることのできないミクロ宇宙もマクロ宇宙も、心で感じられるようになります。

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いさどん:
これは宇宙の中の私たちの立ち位置です。高次の意識になれば、宇宙全体を観測しなくても、居ながらにして宇宙の構造を理解できます。

まったく新しい情報を得る時には、古い情報は自動的に整理されて、捨てられることになります。そうでなければ、新しい情報は入って来ません。その時に、中が整理されないまま新しい情報が入ると、副作用が起きます。薬でも、拒否反応が出たりしますよね。しかし、まったく未知の情報ではなく、ただ忘れていることであれば、思い出して元の自分に戻るだけですから、それまでに持っていたものを捨てることで、むしろ楽になるのです。「忘れる」という漢字は心を亡くすと書きます。損得勘定に走っていると、忘れていくのです。しかし思い出せば、「ああそうだった」と本来の立ち位置に戻れるのです。

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いさどん:

『人間以外の生物は、このつながりから逸脱できない』とありますが、実は人間も逸脱はできないのですよ。では人間はどこで逸脱するのでしょう。人間は、自我を優先することにより、全体がひとつの集合体であることを忘れ、自らの立ち位置を踏み外してしまうのです。
一方自我は、すべてがひとつの集合体であるということを、客観的に観て学習するために、わざわざそこから離れるとも言えます。客観的に観て、さらに客観背後までを認識して、この世界を観ることもできるのです。しかしまた、そこから逸脱するということは、ひとつの集合体であることを忘れてしまい、この世界の調和を乱すようなものにもなります。人間とは諸刃の剣で、悪にも善にもなるのです。
神様がすごいのは、その両方を人間に与えたことです。つまり、「そなたは私である」と言いながら、「そなたは私から限りなく遠いところにいる」という道を与えました。その遠いところから元の光へと戻ってくる道のりが神様の意思で、遠ざかっては元に戻り、また遠ざかっては元に戻るということをくり返しているのです。
そう考えると、「神」という文字は、旧字体で「示」に「申」と書きますが、この世界は神と人間のキャッチボールと言えます。

もう一度、宇宙の構造に戻りましょう。
なぜ、地球があるのか。これから先、人類が宇宙を探査していく時代に、水を発見したり、微生物に出会うことはあるかもしれませんが、この奇妙な「ヒト」という、「ヒ」から「ト」までの要素を持っているような生き物に出会うことができるのかどうか。想像する限り、それは難しいですね。つまりそれは、地球という星が、いかに宇宙の総意で創られた奇跡の星であるかということです。そして「ヒト」というものがいかに宇宙の総意によってこの立ち位置を得ているのかを考えた時、私たちが地球に存在していること、生命であること、ヒトであること、そして自分自身であるということがいかに貴重で尊いことなのかということが観えてきます。
人間は自らの人生を自滅させるような人もいれば、マザー・テレサやガンジーのような聖人としての生き方をする人もいます。自分のことしか考えず、お酒やタバコなどの依存症になっていく人もいれば、自殺する様な人もいるわけです。多様性の世界を表現するための役割だから大丈夫だよ、うつになって生きていてもいいんだよ、と褒めてあげたいような大らかな気持ちにもなりますね。
これから私たちがさらに宇宙を探査し、ある星に辿り着いたら、それは「うつ星」だった。みんなうつで、うつであることがステイタスで、「高次のうつ」なんてものがあったりしてね。そういうの、どう?(笑)
うつだけではなく、そういった多様性の世界をピンからキリまで体験できるのが、地球という星です。そう考えると、地球に生きるとはすごいことだと思いませんか?何があっても、どんなことに出会っても、楽しいという感じがしませんか。そういった捉え方をすれば、生きることと死ぬことは、まるっきり正反対のようなものですが、この星に生きることは、それを両方体験できるのです。皆さんは、その体験ツアーに来ているのですよ。

みかこ:
発生学のことを思い出した。人間は最初に肛門ができて、そこから内臓が順々にできて、頭ができて、最後に脳ができる。だから脳は二次的なものだというのだけれど、脳には松果体という、宇宙を感知するとても大切な部分がある。とても高度なものであるからこそ、先にその他の部分を受け皿として創り、最後に脳を創ったのだと今理解しました。それは、動物の中で人間が最後に創られたことと同じ。高度だからこそ、その最終章に登場した。

脳は潜象界の感受体であり、体は現象界そのものを現している。特に手足は、さらなる現象を生み出していく現象化の働きをする。潜象界から現象界に現れる時には、自動的に質的転換が起こる。それは、脳の右脳は左半身に、左脳は右半身に作用する仕組みと同じで、まさに潜象界と現象界を質的転換しながらIMG_0361行ったり来たりするのと同じ仕組みになっている。同じように、目から入ってきたものは目の奥で焦点を結んで反転し、脳に認識される。つまり、目というのは、潜象界から現れた現象界を感知するための器官なんだよ。脳に直結し、現象界で捉えた像を脳へと送っている。その情報を持って、脳は現象の奥にあるものまで感受できる能力を持っているのだけれど、目が曇っているというのは、まさにそういった真理を探究する心の目が曇っていると言える。目(芽)は、表に現れている部分は少ないけれど、その奥に広がりを持っているものが控えている。まさに氷山の一角だね。

いさどん:
それは依正不二という言葉にも表れています。この世界で人間は、脳の役割を果たし、動物たちは現象化するための役割であるとも捉えられます。人間の目が曇っていると、結果、この世界のすべてが混乱していくのです。

めぐちゃん:
今聞いていて思ったのが、脳の松果体で受けたものが喉で交差して体へといくわけだけれど、まさにその喉で声 ──── 響きを発していますね。

みかこ:
そこに意志が現れる。いさどんがいつも言うのは、語ると現象化するということ。だから声に出すことはとても大事。

いさどん:
「イ」「シ」とは、「示し」の「位置」。体へ行くだけではなく、外にも発せられます。

みかこ:
その中で、松果体で受けたものには、天の意志が示されているんだね。

いさどん:

でも今は上(霊性=潜象界)よりも下(体=現象界)が優先してしまっている。

みかこ:
松果体は宇宙を感受する場所。カタカムナはここの感受性を磨くことを伝えている。

いさどん:

今は思考の主体が損得勘定になっており、そういった思考は下から湧いてきます。しかし本来、生きるとは、「今日は天気がいいから何をしたらよいでしょうか」と、上にお伺いをたてて生きるものなのです。そしてその結果も、先に行ってみていただいていく「いただきます」の姿勢であるべきなのです。

みかこ:
現代人は脳の10%しか使っていないというのは、現象界しか見ていなければ当然のこと。

いさどん:

6500年前から、そういった時代が始まりました。しかし13000年前には松果体優先で生きる人々がいたわけですから、地球46億年の歴史からしたらそんなに遠い話でもないですね。それもサイクルを刻みながら先へ進んでいるのですから、今私たちが物質文明をこれだけ発展させたのも、それを体験して次のサイクルへ行くためのものなのです。ですから、そんなに深く考える必要もないのかもしれないですね。これを経験しなければ、次がないのですから。

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いさどん:

人間が正しく生きるとこの世界が正しく運営されるということは、人間が「ヒ」から「ト」までを理解した「ヒト」になるということです。
人間は、この世界の法則から逸脱することができます。生命ですから、本来この世界の法則から逸脱することはできないはずなのに、できるとはどういうことかと言うと、意識の上で逸脱できるということです。そして、その逸脱の体験を学習することができるのです。
「依法」と「正法」は不二、つまり表裏一体です。依法と正法は、その双方が役割を果たすことによって、この世界を運営しているということです。それを忘れていてはいけません。

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いさどん:
この世界は「成住壊空」の仕組みで成り立っています。この拡大の始まる一点がビッグバンです。ここから世界が広がり、地球上では現象化が進んできました。生命も進化してきました。そしてピークを迎えると、「満つれば欠ける」というように、今度は崩壊に向かっていくのです。「成=誕生」「住=維持」「壊=破壊」と進んでひとつのサイクルが終わると、「空」即ち無になります。図で見ると、この「空」は一点で表されていますが、この点は天であり、無限なる宇宙でもあるのです。この点である瞬間が無限につながり、無限の世界を創っています。つまり、そこではトキも存在しないのです。それは限りなく長い世界であるとも言えるし、「ない世界」ですから一瞬で次の世界に切り替わるとも言えます。

『この世界は、「ある世界(現象界・陽)」と「ない世界(潜象会・陰)」を行ったり来たり(質的転換)しながら循環し、生死を繰り返している』
その天然循環の世界が神様の歩みであるとしたら、この図は神様の呼吸を表してもいます。私たち人類の文明も、同じように呼吸していますね。時代は、神様の呼吸で創られているのです。誕生し、死を迎え、誕生し、死を迎えるという陰陽のサイクルが無限に続いているのです。

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いさどん:
これは村山節さんという人が提唱した、文明周期説に基づいています。今私たちは西洋文明と東洋文明の盛衰が入れ替わる、転換期にいます。転換期だからこそ、こういったことに気付けるのです。そういった切り替え時だからこそ、今話しているようなことを理解し、語れるのであって、もっと前の時代にはそのような視点は持てませんでした。今、様々なターニングポイントが同時に地球上に訪れていますが、私たちがその大転換の時に生きているということはとても重要であり、めぐちゃんが言うように「過去にこんな時代があっただろうか」というくらい稀な時に私たちは集っているということです。
その中でも、こういった仕組みを理解できる場に集っているということはとても貴重なことです。世の中はまだ、銀河の冬至という闇のピークを越えたばかりで、季節で言えばこれから「小寒」「大寒」がやって来るのですから、もっと寒くなります。そういった事実を抜きにして、私たちは松果体を震わせて世界の全容を読み解ける立場にいるのですから、それは時代にとってとても重要な立場に立っているとも言えるのです。

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いさどん:
これからは、宗教のように何か他のものから価値を得ようとするのではなく、自分自身の中に眠っているものを目覚めさせる。そうすることによって、自らが尊きものとなり生きる時代がやってきたのです。

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いさどん:

どの宗教も同じですね。人々の「救われたい」という発想がベースになっているのです。

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いさどん:

この世界に生きるということは、自らが「無」となって宇宙の法の元にあるすべてのものごとをいただきながら、「有」である現象界を生きることです。私たちが生きるこの世界は、無と有が共存しているのです。

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いさどん:

お釈迦様が悟りを得た時、それはとても心地よい境地に至り、お釈迦様は一人でその境地にいつまでも浸っていたい気持ちになりました。しかし、尊き存在の立ち位置は、それではいけないのです。聖なる者として地上に降りたものは、迷える者たちを救わなければなりません。それが聖なる者の本分なのです。ですから神様は旅人に姿を変え、そのことを何度もお釈迦様に伝えました。

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いさどん:
その花とは、既製品ではなく、一人ひとりオリジナルな「個の花」です。

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いさどん:
なぜ「願ってやみません」と書かれているのかというと、そのことの大切さに気付いた者がどんなに高次の意識で投げかけたとしても、結局人間には自由が与えられており、自らがどのような意識で生きていくかは一人ひとりの選択なのです。
そのことの大切に気付き、ぜひその境地に行っていただきたい。この世界はあなたの目覚めにかかっているのですから。

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第28日目:これからが真のスタートです!~1ヶ月間の真学校・最終日のいさどんの挨拶~

この1ヶ月間はあっという間でした。今、みなさんに、この1ヶ月の学びを定着してもらうために何が一番良いのかを考えていました。学校では義務教育の9年、それに12年、16年・・・と学ぶ人もいますが、その学びはみなさんの中ではどのように残っていますか。学んだことの何パーセントくらいを日々に生かしているのでしょうか。学校での学びの多くは知識を学びます。そこから自らに相応しいものを取り入れていければ、全て人生に生かせるというものです。100の学びをして、一律80%の学びを得られたとしても、人によって必要なものと不必要なものを仕分けしているのです。逆に言えば、もし自分が必要だと思うものだけを取り入れていったら、その人は自分の枠の中だけで生きることになります。ですから、不必要と思うものをどのくらい自分の中に取り入れて有効に生かすかによって、その人の幅が広がるものです。

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今朝、みなさんがどのよう表情をしてここに来るかを想像してみました。1ヶ月間の学びを終え、昨日の修了パーティーまでの顔と、今日旅立って、日常に戻るときの顔は同じだと思いますか?

 

みどりーぬ      全く違う。モードが切り替わっている。

いさどん        元のモードに戻ってきているということですね。個人差はありますが、僕がみんなの顔を眺めてみると、元のモードに戻ってきている人と、意外と戻っていない人と、完全に元のモードに戻っている人がいます。では、何のためにこの学びをしてきたのでしょうね。みなさんは真学校で何をやりましたか。

みどりーぬ      心磨き。

いさどん        心磨きはなぜ必要なのでしょうか。

みどりーぬ      物事の奥を観るため。

みへちゃん   幸せで平和な生き方をするため。

いさどん        それは誰のためですか。

あわちゃん   世の中のため。

みへちゃん      地球のため。

いぶちゃん      宇宙?

いさどん        ハッハッハ。それって、本当に考えていますか?

いぶちゃん   社会、地球ときたので、単純にもっと広いところを言ってみました(笑)。

いさどん        そういうのを知識というのですよ。今は、あなたが心から自分らしく想っていることを聞いています。

のりこちゃん  豊かな波動を出すため。

いさどん        それは何のために必要なのでしょうか。

のりこちゃん            豊かな波動を出すと、自分も周りも自然な状態でいられるし、天とつながった状態でいられるから。

いさどん        色々とあると思いますが、まず、自分が楽に楽しく生きられることだと思います。そこで、自分を楽しくない状態にしているのは誰ですか。

のりこちゃん    自分。

いさどん        その楽しくない状態を生み出しているのは、どのような自分がそうさせているのでしょうか。

のりこちゃん    狭い世界観。

いさどん        狭い世界観とはどのようなものですか。

のりこちゃん  周りが見えず、自分しか見えない。

いさどん        もし、狭い世界観で自分しか見ていない人がいるとして、それはあまり豊かな人生を生きられないとしますよね。では、どうしてそのようになってしまうのでしょうか。狭い世界観で自分しか見ることができない生き方をしているのは、本当にいけないことなのでしょうか。

みどりーぬ      それは、自分で気付かないうちに加害者になっているのだと思う。

いさどん        それは、あなたの場合そういうことがありますね。逆に、気付かないうちに被害者になっていることもありますね。ところで、今、黙っている人たちは、心の中で何を考えていますか。

よこなお        自分のことを言われているのかなと思います。

いさどん        自分の何を言われていると思うのですか。

よこなお        自分のことしか考えていないとか、狭い世界観のことです。

いさどん        今回のこの出会いで、何を学びましたか。

よこなお        自分がいかに狭い世界観で生きてきたか、そのことによって周りに不調和を与えてきたこと。さらに、自分がいかに面倒くさくて性格が悪い人間であるかが良くわかりました(笑)。

きたじゅん      狭い世界観だと、誰も気付かないうちに、周りにも自分に対しても加害者になってしまうけれど、自分の世界観を広げれば、自分の資質や特徴などを知って、それを世の中のために生かすことが出来る、ということを考えていました。

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いさどん       自分のために生かすことが世の中のために生かせると今言いましたね。自分が世界を創っている、だから自分のためにやることが世の中のためになる。こういった話は、プログラムの中で良く出てきましたね。それは、自分と向き合った結果の話ですから、個人個人の個性を生かす話ですよね。他の人はどうですか。

たかちゃん      人との関わり合いの中で、その人たちを鏡として自分の心の状態を学ぶ。そして「正直・素直・信じる」を、勇気を持って実行すること。

いさどん        それがあなたのこれからのあり方ということですね。他にはありますか。

あわちゃん              僕は・・・良くわからなくなってきました。

いさどん        わからない状態でこれからどうしますか。

あわちゃん      わからない状態で・・・ブログを書く(みんな、笑)。

いさどん    やることはあるということですね(笑)。

あわちゃん   結構良い意味で、わからない状態なんです。

いさどん     それはある意味、幸せかもしれませんね。朝、みなさんの顔がどうなっているのだろうかと想像したときに、きっと元に戻っているのだろうと想像してきました。ここで何が言いたいかというと、人はそんなに簡単に変わることはできないということです(みんな、苦笑)。この1ヶ月間、みなさんは自分でその学びを勝ち取ったのではなく、バーチャルな1ヶ月間に誘導されてここまできたのです。ましてや、3日や1週間の学びで人が変わるようなことは普通はないのです。それで今日の最終日をもって、これからが真学校での学びを生かしていく真のスタートだということです。例えば大学まで行くと16年間学ぶことになりますが、そこで社会に出るために必要なものが全て会得できたかというと、そこからがそれを生かすスタートなのです。学校では何か刺激をもらっただけのことなのです。

僕はなぜこうしたことをしているのかをイメージしてみました。今の世の中を見ると、迷っている人が多くいます。迷っているということは、生きることの柱になる考えがないのです。本来の自分のあり方や生きるべき方向、生きる目的につながる真実がないということです。真実は人の数ほどありますが、同時に真実は宇宙には一つしかありません。そのように共通するものなのです。

人間はおかしな生き物です。自分という我を持っていて、その自我が原因となって迷う者です。我を持っているということは、自らをコントロールできるということです。他の生き物は、自らというものをコントロールすることができません。この世界に存在するために与えられた役割のまま生きていくだけです。そこから外れると、他の生き物は全て死ぬことになります。もしくは、環境が徐々に変化する場合は、環境適応という形で変化しているだけであり、それが自分の意志かどうかは微妙なところです。しかし、人間だけはそれを自由自在にできるのです。そして、自らを変えても存在できるように生を与えられているのです。それはある意味高い能力ですが、その能力が自らを苦しめることにもなります。ここにいる人たちだけではなく、人生に行き詰っている多くの人たちのほとんどは、被害者だと思っています。それでは、加害者はどこにいるのかというと、環境や時代、もしくは何か特定のものなどたくさん存在しています。その中でも、一番の加害者は自分自身なのです。大学まで進んで勉強し、社会に出ても、自分というものから抜けられないということです。では、どうしたらよいのでしょうか。自分というものから抜けられずに、そこから迷いの人生が始まる人はたくさんいるのです。

みなさんは1ヶ月間学び、それだけの知識を得ました。本当は、これは知識を得るためのものではありません。1ヶ月間学んだ結果、生きるということはどういうことなのか、この世界の構造はどうなっているのか、自分とは何なのかを学んだときに、自分の外にあるものを自分の中に取り入れていくこと、そして天の智慧をもらい、自らの内に元々ある潜在的な智慧を湧かせることになるのです。そうすると、今までの自我の人生にプラスαを得て、生きていくことになります。ところが、その学びが単なる知識に終わっていると、それは智慧を湧かせるためには使い物にならないのです。この世界が成り立っている仕組みや自らの内から湧き出る日頃意識していない潜在的な智慧を使うと、その人に柱が立つのです。柱が立っていないと、元の環境に戻ると元の顔に戻っていきます。柱というのは自分らしいということですよ。そのためには、わたしは何者か、わたしはどういう性質をしているのか、をまずは知ることが大切なのです。

(いぶちゃんがi-phoneを操作しているのを見て)

ねぇ、そこの人、何をしていますか、話を聞いていますか。

いぶちゃん      はい、聞いています。

いさどん        そういう姿勢は聞いているとは言いません。確かにそれはあなた流の聞いているということですが、そうした姿勢がこれまでのあなたを創ってきたのですよ。それで今までを振り返ってみてどうでしたか。

いぶちゃん      学んでいないです。

いさどん        学ぶ、学ばないということを聞いているのではなく、今までの人生を振り返ってみて、あなた流に生きてきた結果どうでしたか。

いぶちゃん      うまく生活できませんでした。

いさどん        でもそれがあなたですよ。うまくできなかったことと自分を切り離していないですか。これからもそれを続けていくと同じような人生が待っていますよ。それは、嫌なことも全て自分が歩んできた道だということです。自分の歩んできた道だからこそ、変えようと思えばどのようにでもなるのです。自分とはこういうものだ、今まではこうやって生きてきたからこれからはこういうふうにしていくぞ、と柱を立てられるのです。自分を理解していないと、歩んできた自己責任の道を環境や人のせいにしていくのです。

みなさんは人間であり生命であり、そして生命は時代と共に生きるのです。そして時代というのも生命なのです。蛙でも1年ずつで死にますが、昨年の蛙、今年の蛙、来年の蛙というように、花でも昨年の花、今年の花、来年の花と命をつないでいるのです。私たち人間も、この時代の人、あの時代の人・・・と古代からずっとつながっているように、世界もそのようにつながっています。つまり、私たちは自分という人生を生きているだけではなく、同時にこの世界をつないで生きているのです。それは、ここで聞いたからそうなのではなく、この世界は実際そうなっているのです。宇宙を生きるということは、毎年季節を迎え、春にすること、夏にすること、秋にすること、冬にすることに付き合いながら生きることです。朝を迎えることも宇宙を生きることです。しかし、そういった大いなる仕組みの中で生きている私たちは今、何を考えているのでしょうか。あれを食べたいとか、これがないと生きていけないとか、その心があなた自身なのです。

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全ての生命に平等に太陽は降り注ぎ、自然は万物に循環し、平等に四季があり、平等に一年が経っていきます。その一年はあなただけの一年ではありません。全てと共に時代を創っているのです。みんなが生きる時代が積み重なって、地球の歴史になり、さらに宇宙の歴史が刻まれているのです。真学校の中では、そこまでのレベルに人々が目覚めることをイメージしながらいろいろなことを皆さんに提供してきました。人間はそこまでの意識で生きられるのです。それは当たり前のことです。しかし、人は自らの内側だけに興味を持っていたら、ばかばかしいほど些細なことを考えるのです。

のりこちゃん    焼肉を食べたいとか、日本酒を飲まないとダメとか(みんな、笑)。

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いさどん        そうなのです。時間の使い方であっても、朝起きて、テレビをつけてただボォ―と観て、一日が終わっていく人たちもいます。それが積み重なって時代を創っているのです。「わたしは世の中なんて創っていない」「世界で起きていることはわたしに関係ない」と言っても、事実、そういったことが世の中を創っているのです。そしてたくさん電力を消費して、原発の電力が要るか要らないかという話になっているのです。それは深刻な話なのですが、そういう人たちによって電力会社が支えられているのです。こうしたものの見方は、視点が変われば当たり前に気付くことであり、そういった視点を持たないと、「焼肉を食べたい」「たばこはやめられない」「お小遣いはいくら無くてはダメ」となるのです。そういったことは全てその人その人の基準です。これは、そのような枠の中に自らをはめているのか、それとも知らない間にそういった枠ができて、その枠の中に閉じ込められているのか、そのどちらにも考えられます。「それが僕の権利で、それがないと幸せに生きられない」という狭い枠の囚われ方もあるのです。枠というのは小さなものから大きなものまで様々にあります。時代の流れまで考えたり、宇宙の彼方まで想いを馳せるといった大きな枠もあるのです。そのどれもが真実です。ですから、自らのスケールはいかようにも持つことができるのです。その結果、あなたの前に、あなたの枠のスケールにふさわしい現象や感情が現れてくるのです。例えば、「生きにくいな」とか、「世の中にろくなやつはいない」とか、「幸せに生きられない」など、一人ひとりの感情をあげたらきりがありません。そのように、一人ひとりは全くオリジナルな人生を歩んでいますが、狭く小さな自分の中に閉じこもって生きていながら、そういった自らを観ることをせず、「わたしの人生がうまくいかないのはなぜなのだろう?」と不可思議に思っている人もいるのです。

みなさんは僕が伝えたいことがわかりますか?そこに気付けた人は、人として生きてきたことの意味をやっと理解し始めた人たちだと思うのです。こんなことは簡単でしょう?ちょっと自らを離れて、自分の言っていることや自分のまわりを観察してみれば、今まで被害者だと思っていたこと、知らない間に加害者になっていたこと、生き辛いと思っていたこの世界を創っていること、時代をつないでいること、一日を刻むこと、一年を刻むこと、死を迎えること、そして宇宙を生きていることが観えてくるはずです。ちょっと視点を切り替えれば、簡単なことでしょう?

今朝、みなさんの顔を見たら、完全に真学校前に戻っている人と、少し戻っている人と、学びが定着している人がいました。それはどういうことかというと、元の自分に戻ったのです。元々この人は既に柱が立っているという人、そろそろ柱が立つ頃だという人、柱が立つために来たという人、それから元々柱が無かったからそこへ戻った人、と人それぞれです。それでは、この学びが必要なかったのかというと、そういうことではないのです。冒頭で話したように、学校教育での学びを得て、そこからがスタートだというのは、その学びを得たからです。昨日まで真学校の学びをして、そして心新たにこれから出発するときに、いよいよその学びを自己コントロールとして使っていくかどうか――、そこからが始まりです。それは、これから取り組んでいくことなので、十分に身に付いていないですよね。それで、元の自分に戻ってしまうのです。それを私たち人間の世界では「無駄」と言い、自然界では「魔」と言います。無駄や魔は、自分の中にあるのです。自分と向き合わないでいると、いつでも魔は差してくるのです。やはり、胸を張ってまっすぐ王道を歩みながら、何のためにそれをやっているのか自らの姿勢を常に意識していくことです。そういった、一人ひとりにふさわしく、自分らしい自覚の柱というものがあるのです。なぜそういう話をするのかという一番の目的は、それがみなさんが自らの歩んだ道を好意的に見ていくコツだからです。「わたしは本当にわたしらしく、存分にわたしを活かし、生きた結果それを誇れる良い人生だった!」と言えるかどうかです。人はいつか死にます。そのときに、「あぁ、つまらない人生だったなぁ、ぜんぜんダメだった」と悔やむことのない生き方で終わるということです。人生の終末を「良い人生だった!」と胸を張って迎えたときに、初めてこの人生の答えが出るのです。ところが今、目の前にある特定のものに囚われて、「これが無いとわたしは幸せになれない」と条件を付けていたら、あなたはその枠の中に自らを閉じ込めている人ということになるのです。

 

この世界の構造を理解し、時代を生きるという話が真学校のプログラムの中でありましたね。そういったスケールの大きな人になることもできれば、目の前の小さなことに囚われて生きていくことを選ぶことも、人にはできるのです。そしてそれは、自らで長年積み重ねてきたことですから染み付いています。それをどうするかは、一人ひとりの意志です。それが、あなたらしい生き方につながります。その答えは、いつか誰でも死にますから、その時に自らと向き合って、一人ひとりどのくらいのものだったかを確認する時が来るのです。それと同時に、みなさんが生きた結果は時代に反映され、時代が紡がれていきます。ですから、この時代、この世の中は、私たちが創っているのです。それに気付いた人が多ければ多いほど、気付きのように時代は変わっていくのです。自分がその世界を創っているのですから、本当はどこにも文句は言えないのです。大きく広く捉える人であればあるほど、世の中のためになります。それが大きくどころか、考えることもしていなければ、感情のままに自我に翻弄され、その枠の中に縛られ、閉じこもって生きていくことになります。しかし、自分を閉じ込めその枠の中で不平不満を言っている人にも、その人なりの幸せがあるのです。面白い世界でしょう?これが、私たちが生きている世界の構造なのです。この世界は、どんな意識のレベルの人にでも、存在することを認めてくれるのです。自らを辛く苦しめる人にもですよ。

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真学校で学んだことは、そのために世界観を広げましょう。自我に囚われ小さいのは、世界が狭いからです。同じ自我でも世界が広がると、「地球は一つ!生命は単独で存在するのではなく、全てネットワークしているのだ。そして、そのネットワークの中に人類も含まれ、自分もいるのだ」と気付くことが簡単にできます。そして、木も草も虫も、私たちと共通したネットワークの中にいるのですから、こうしたものたちが健全である世界は、私たちにも健全がもたらされることは当たり前の話です。しかし、人はどこかで環境などの学びをしないと気付かないのです。

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空に月が昇り、朝日が昇ることによって、わたしたちは生きているのです。海の潮の満ち干きは月との関係なのです。毎日新たな一日を迎え、朝が来て、昼が来て、夜が来て、眠くなったりと活動するのも、太陽との関係です。それを全く考えないで生きていくことも可能ですが、日常の繰り返しをどのように観ているか。それが意識レベルであり、それは自由です。目の前にいる子だけを想うのは親の勝手で、感情が湧いてきたら欲しいものを求め、感情が湧いてきたら欲しいように意識表現をする。しかし、そのような生き方は頭を使っていません。それでは動物と一緒です。ところが、動物はこの世界の法から外れたことをしないので、頭を使わなくても有益な存在であり続けるのです。しかし、人間は枠を広く自由に設定してあるので、本来の目的から外れるようにも出来ているのです。ですから、人間は頭を使わないと外れてしまうことにもなるのです。人間は何のために頭を使うのかというと、自己コントロールするために頭を使うのです。動物は頭を使わないようになっているから、それぞれの枠の中から外れずに、この世界をきちんと保ってくれる美しいものなのです。人間は頭を使うようにできています。だから、逆なのです。人間は頭を使って、正しく生きるようになっているのです。動物は頭を使わないで、正しく生きられるようになっているのです。

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そうした自己コントロールを身につけて、これからも自己コントロールし続けていき、最後に「良い人生だったな」と胸を張れるのが人生の勝利者なのです。それは、外との戦いではないのです。魔が差すのは自らの内側なのです。自らをよく観察して、自己コントロールをし、自らの魔に打ち勝ったときに人生の勝利が誰にでも訪れます。

そういった人間の目覚めをそろそろ地球上に広げたいと思っているのですが、それは政治の世界で日本の総理大臣が各国の代表者と集って平和を語ったり、環境が悪くなったからといって表面的な取り組みを一生懸命進めるような大きなスケールのことではありません。誰もが日常のふとした自らの心と向き合って、「今、何をしているのだろう?」と思うことです。そういった何気ない小さなことが積み重なって、今の政治を生み、国の代表を選び、そして平和を謳いながらそれが成らない世界を創っているということではないですか。「テレビで報道されている紛争や地球温暖化、原発の話は、わたしには全く関係ない」と日頃思っていることが、この世界を創っていると僕は思います。そういったこと全てが自分のやっていることだと思いませんか。こうした出来事を順を追って振り返って行くと、「わたしはこの世界を創っている問題の元凶だ!」と気付く人もいるでしょう。頭を使っていなければ、自分には全く関係なこととして、自らの意識の行き届く身内や生活の範囲にしか興味が向かないことになるのです。

今回、広い宇宙の仕組みから身近な自我の傾向までの話をしてきましたが、そういった目線を創ることがどういったことを生み出すのかをもう一度確認し、これからのみなさんの歩みにつなげてほしいと思います。それが目覚める(目を開けて生きる)ことであり、そのことを毎日忘れないでいただきたいです。朝起きたときに、わたしは何者なのか。今日の一歩を進めるときに、自らの歩みがどこにつながるのか。それは、私たち人間が幸せになるためです。そして確かに、この世界を創っていくのです。この世界がおろかな世界だったら、私たちの幸せはないでしょう。世界には興味がなく、自分のことだけを考えていることをエゴといい、その元となっているのは自我です。しかし、自我を捨てる必要はありません。それはコントロールすればよいのです。みなさんは、その構造を学んだのです。今、話を聞いて、「そうだったなぁ!」と思い出している人もいると思います。それを毎日持ち続けていくことが大切なのです。僕は毎日持ち続けています。朝起きると、人間とは何だろうと思います。1ヶ月間、毎日それをみなさんに伝えてきました。しかし、それは僕の考えを伝えているわけではなく、この世界の仕組みの観方を伝えているのです。

これはいさどんワールドなので、アカデミックではありません。しかし、僕はこれが本当に道理にかなっている自信があります。今の科学、物理、政治、経済、教育などの現場では、表面的な道理からできています。しかし、これはどう考えても道理にかなっていることです。人はこれまで学問として学びを捉えてきました。それが人間社会に豊かさや優秀さを提供し、この世界を創ってきました。しかし、それは否定することではありません。それをもっと有効に生かすとしたら、やはり道理を理解し、道理を常に保っている人が育たなければならないと思うのです。それは、毎日の地道なその人の意識、活動にあるのです。朝起きたときに、わたしはどう生きるのか。一日が終わって(木の花ではありがたいことにミーティングがありますが)、そこで今日の自分は一日どうだったか。そこでの振り返りには個人差があり、真剣に振り返る人もいれば、みんなの智慧を借りて振り返る人もいます。そして、全体の中から個人の意識になって、寝る前に、今日一日どうだったかと振り返る。それが、一日の「生まれて死ぬ」ことの繰り返しなのです。

こういった生き方を、僕は「充実」と言います。そういった意識をみんなが持ったら、居酒屋やディズニーランドなどレジャーの場所に行っても、「わたしの人生はどうだったかな」とか、「これから世の中をどうしていったらいいのだろう?」という話題がたくさん出てくるようになると思います。自分がどう生きたかということが、どのように世の中に反映されているのか。人々は自らを通して振り返るようになるでしょう。

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僕は日々そのように思うのですが、人間と付き合っていくと、「なぜ人間はこのような生き物なのだろう?」と気持ちが折れてしまいそうになることがあります。それも人間らしくて良いのかもしれませんが、人類はこのまま進んで行くと、そのツケは大きいと思います。3日前、あの東日本大震災から4年が経ちました。アメリカには原発が100基あるそうです。福島の原発事故が起きる前から原発を無しにしようという動きがありましたが、現代の社会はお金で成り立っています。矛盾で成り立っているのです。そうすると、その「反対」という矛盾と、矛盾を「推し進めよう」という矛盾の対立の世界なのです。人間社会は21世紀になっても、戦いの世界だからです。その代表の国がアメリカです。そのアメリカは自由主義、資本主義の国であり、その実体は矛盾によって大きく栄える国なのです。それが今、世界中の国が目指すべき目標の国とされていますが、現在の社会の動かす経済は、矛盾があればあるほど大きくなります。人間はストレスが溜まれば溜まるほど無駄な消費をしますし、争いもします。そして競争が起きます。そういった負の概念が経済を大きくしているのです。ですから、福島の原発事故が起きる前から、「原発反対」と「原発推進」とで戦っていたのです。それが、福島の原発事故が起きたことで、「だからやめたほうが良いのだ」「そうではない。だからこそ、安全なものを作って推進しなければならないのだ」という議論になっています。さらに、それに加えて「安全でも安全でなくても、金になるからやらなければならない」というもう一つのグループもあるのです。原発が壊れたら、またその被害で大変なお金や労力がかかるでしょう。だから、それもビジネスチャンスだからやらないといけない、というようにそれぞれの思惑や事情があって戦っているのです。そこで、僕はどちらの側に立つのだろうかとテレビを観ながら考えていたのですが、マスコミではこのような区分けはしていません。しかし、僕にはそのように人の立場が分かれて観えるのです。僕には世の中の人はみんな、同じ穴のむじなに観えるのです。「何をあなたたちは争っているの?人間って本当に変な生き物だね」と思うのです。

アメリカの原発(スリーマイル島)
アメリカの原発(スリーマイル島)

21世紀を迎え、銀河の冬至を越えた今の時代を考えると、そろそろそういった人々がこの時代に現れてこなければいけないと思います。そして、僕は自分がそのような人間だと気付いたときに、これを生きることを人生の目的とするのです。時代を生きるとはそういうことなのです。みなさんにも少しだけ、その大いなる大事を提供してきました。「自分の生きる目的は何だろう?」「世の中ではそれがどのように扱われているのだろう?」とちょっと疑問を持ち、そしてちょっとだけ自分と向き合い、そこに頭を使い、考える。そういったことをみなさんに提供できたとしたら、1ヶ月の学びが確実にみなさんの次の一歩につながると思うのです。それが、自分らしく、柱を立てて生きることです。1ヶ月間の学びが次の一歩を踏み出すときに元に戻ってしまうならば、あなたは何のためにこの時間とお金を使ったのでしょうか?ちょっとだけ違う自分に変化して、次の一歩に生かしてもらえたら、私たちもこのプログラムを提供して良かったと思います。

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第26日&27日:心の振り返り

一ヶ月間の真学校もいよいよ終盤をむかえ、最後のまとめとして、12日と13日の午前の時間を使って一人一人の学びの振り返りをしました。初めにいさどんから以下のような話しがありました。

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「どんなに人間が科学物理の世界を広げたとしても、神とつきあわないで人間の歴史があったことはありません。しかし人間は、神を見失い、神や真実を怪しむようになりました。人間の中に、神や真実の世界が定着しておらず、揺るぎない柱が立っていないので情報の洪水の中で、見えない世界に対しての迷い人となっているのです。迷い人たちが作り上げた現代社会は、矛盾の生産工場になってもいるのです。

人々の興味は自らの自我に向かっているのです。しかし、真学校では、最も大きな世界から自らに向かってきて、初めて自らが見えるというように、自分が世界の中心ではないことを学びました。みなさんが次のステージに立ったときに、真学校で学んだ客観視点で何を観るのか、それが一人一人のこれからの歩みで、真学校の本当のスタートなのです。」

そしてしばし、一人一人がここでの学びと、当初の目標が何だったのかを振り返る時間を持ちました。ここで、いさどんがみんなに伝えたことは、

「真学校は一人一人に伝える講座としてやりました。それは一人一人歩む道が違うからです。しかし、その本質はその、一つのことを伝えました。それはこの世界が一つだからです。」

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それから丸く座り直し、振り返りの時間が始まりました。

「生き詰まっている人は、自らの望みを叶えようと奔走します。つまり自らを特定の枠の中においておこうとする人です。それを手放すと人は変わっていきます。

生きる事は一人一人オリジナルな旅をしている人生はバイキングのようなものです。みんなが自由に心をオープンにして語り合っていく中で、いろんな人のいいと思う性質を自分の人生にトッピングしていくことができます。」

13人の中身の濃い振り返りがあったのですが、その中から、2年前のEDEにも参加し、その後も会社に勤めながらも木の花に関わり続け、今は長期滞在しながら心を学んできいるあわちゃんの振り返りにスポットをあててみました。

あわちゃんの真学校に参加する目的は

「自己コントロールして健全に生きる。

真学校が終わって、これだったら僕にとっても心地よく自分の回りも喜び合えるような生き方を見つけること」というものでした。

以下は、今回の振り返りのいさどんとあわちゃんの会話です。

いさどん: あわちゃんは元々生きる事のテンションが高い人。今までテンションが高くなりすぎて壊れて、落ちてということを繰り返していた。テンションが高いのが個性なのだから、そこでテンションが高い状態で自分を他者に生かせるようになったら、あなたの心も満足し、回りにも貢献できる。結構今そこにはまってきていると思うけど、どうかな?最近はぐるぐるというよりも、巧妙に表現して最後は笑いを取って拍手をもらって終わるという感じになっているね。今もぐるぐるしているの?

あわちゃん: 最近はバラバラの思考が若干統合できるようになってきていて、文章にするとまとめられるけど、文章化しないと頭の中でまとめられないという状態です。

いさどん: 頭の中で考えたり、話したりするとまとめられないことが、文章にするとまとめられるということは、そういう役割で生きて行きなさいということでもあるんだね。

今まで先に「これが欲しい」と欲を優先してみんなダメにしてきたけど、わからないけど何かこれでいいんだという安心のもとに進んで行ったら、結果として出会って見えるものがあると思う。

あわちゃん: 自分の場合、「こうしたい、こうなりたい」というのがすごく強いので、それを一瞬一瞬止めていて、普段日常のことから積み上げていった結果が、ああいったシェアーとかブログという形になっている。僕の人生自体、真学校が終わった後どうなるか分からないから、とりあえず今常に自分の心にあるものを前に送り、その結果いろいろいただくので、いつもだとそこでバーンと落ちるんだけど、それを文章で表現するということで落ちる前に上手く循環できて、コントロールする感覚が得られてきていると思う。

いさどん: あわちゃんにはもう一つ聞きたいことがあって、ここまでは「自分がどうするか、自分の心の状態をどう掴んでいるか、そしてどういった姿勢でこれから望んでいくか」という話しをしたでしょう。木の花にいるいないに関係なく、その先にある社会という器に対して自分の目標やイメージはあるのかな?

あわちゃん: 大きなものは今あえて考えていません。狙わない方がいいと気がついたので。

いさどん: 最終的なイメージとしてその人のスケールで社会に貢献していくこと、よりよい社会の成り立ちに貢献する自分につながったらいいと思うので、そういうイメージは持っていたらいいね。

あわちゃん: 僕が何も狙わずににシェアーをした事を受けて、ともくん(ヘルパーさん)が「僕も勇気をもらったからやってみるよ」と言って自分の事をシェアーしてくれたのは、すごく嬉しかった。狙ったわけではないけど、結果的に僕自身のうまくいってないところを出すことで、同じような想いをしている人たちが勇気をもらって歩んでいってもらえる、そういう感じが僕の役割なのかな。

いさどん: 社会に貢献しているね。今までは、あわちゃんが「こうなりたい、ああなりたい」と言っているのを見ると、あわちゃんだけの世界で勝手にやっていて、孤立しているという感じだったけど、ともくんが反応したということは、共感出来るものが発信されているからそうなったんだよ。とりあえず自分が思うところをやった結果、答えがちゃんとそこにある。自分が行動したから起こったことで、流れや出会いによっていただいたことでもある。

ここで共通しているのは、21世紀の始まりの今の時代を生きているよね。今の時代はすごく分かりやすくて、日本でいったら江戸時代なんていう時代は同じ様な変化のない時代がずっと続いていて、わかりにくかった。

例えば江戸時代と明治維新というのは、時代は変わったけどそんなに意識は変わっていない。あの時代は国を開けて外と自分たちを比べる時代が来たから激しい変化のように見えるけど、人の意識は武士から日本帝国軍兵士に変わっただけで、武士道はそのままで、その元にある意識は変わっていない。

でもこれからの時代は日本人が日本人でなくなり、世界人になる。そして地球人が宇宙人になる時代だからすごく変わる時代。そういう意味で情報を提供してきたけど、太陽が一螺旋して銀河の冬至が来たとか宇宙的にも、地球上の時代の流れ的にも、また環境的にも変化の時をむかえている。哲学とかイデオロギーとか宗教が元になっていた制度が限界に来ている。そういったいろんな意味で切り替えの時が来て、ものすごく大きな変革が来るとしたら、一人一人がどこかでそのことを意識し始めている。そのためには誰もが変化していく必要がある。

あわちゃんは、どちらかというと独りよがりで自滅するという、社会にとって有効なのか無効なのか分からない様な存在だった。しかし、あなたの個性が生かされて社会が転換していく役に立ったとき、一人が一人の人生を作っていくという以上の大きな意義が生まれる。その両方をみんなには考えて欲しい。真学校はみんなにそういったことに目覚めてもらう場所でもある。単に「個人の目標を見つけて良い人生を生きましょう」というセミナー的な発想とは違うと僕は思っています。その意識を社会的に持って欲しいということ。これはあわちゃんだけでなく、みんなに伝えたい事です。

そうすると自分の目標のスケールが大きくなって、心の尺度も大きくなり、柔軟性も増す。例えば社会で起業して成功するのは何のためなのと考えること。それは成功するためにはどういう人であるべきなのかということになって、どんどん人が大きくなっていく。起業して成功するということだけだとお金があるかないか、規模がどうだとか、考えていることは自らの利益のためだけ、そうすると新しい社会にとって新たな害をもたらす事にもなる。そうすると時代が転換することにはあまり有効なものにはならない。

あわちゃん: 真学校の13人のコミュニテイーってこれからの時代の超スモール版だと思う。これ自体、時代の流れに沿ったものであれば、ここで学んだ事を社会とか地球に広げるだけで、良いのかなと思う。

いさどん: たかだか一人の人生ですよ。そして一人一人がこれからどう生きて行くかということは、小さく見えるけど、そういったものがネットワークしてこの世界が出来ている。それは地道な話しであるけれど、それがネットワークすると、個人意識だったものが宇宙人になるぐらい、時代をにない創造していく人になる。それはすごくダイナミックで大きな話しにつながる。カタカムナで言う「カ」という最極微少粒子が、この巨大な世界を作っている。小さければ小さいほど連携して振動しこの世界を作っているとしたならば、このネットワークは「あっ」という間にわ~っと広がる。アマハヤミだから。「大きい」は「小さい」が創造している。

最近のあわちゃんは、まだまだ荒削りだし未熟で、これからも探求とか自己コントロールがいるだろうけど、日記を止めて単独の行動としてブログという形でみんなを楽しませていることを、いい意味であわちゃん流にはじけていると思って見ている。

「ルールは日記の中から、コメントもらって振り返れよ」なんて、そんな狭い枠に閉じこめるんじゃなくて、いい意味でどんどんはじければいい。

みかこ: これが、無個性になる道じゃなくて、クセが個性になっていって害から良いものを回りに与えるといういい例だね。

いさどん: ひとりひとりの個性の花を開くというのが、「コノハナ」の意味。

よしてる: 「個人の花」という意味?

みかこ:(絵を描きながら)
「コ」はカタカムナのムナヤコトのコで、深い意味があって、「くり返し」とか「転がり出る」「超える」などの意味がある。潜象界(現象界の元となる多次元世界)から常時生命力がわき出してくること。それがこの世界に伸してくる。次々と転がり出たものが、この世界に生み出された個性なんだよね。それが個人の「コ」でもあり、大宇宙の中に小宇宙がとびだしたということでもあり、「コノハナ」というのは飛びだした個性が花のように開いてバランスを取り合って曼荼羅を作っているという意味。

ホワイトボードの絵

ホワイトボードの絵

コノハナ曼荼羅
コノハナ曼荼羅

いさどん: コノハナというのは宇宙を歩くそれを理解した人たち。我々がそういうことを理解してこの世界に生きるということは、宇宙(時代)を歩くことを理解し、個人を存分に発揮しながらこの世界を創る人々という意味。イメージはそういった宇宙意識を持った人たちが宇宙空間(時代)を歩いている。(ここでナンバ歩きの動作をする)

そうすると気持ちが落ち着いて、存分にコ(個人)の花を咲かせられる。そうすると自ずとあなたのポジションが見えて来る。

あわちゃん: まだ荒削りなのは重々解っています。

いさどん: その典型的なのは、あなたが良く語る「もてる」という話しだよね。「もてたい」という心があるのは荒削りで、「もてる」というのは「もてたい」じゃなくて魅力的な人になればもてるんだよね。しかし、自分に似合わないものにもてたら困るでしょ。やっぱりふさわしいところでもてる事が一番だよ。そうしたら、落ちるところへ一度落ちて、そこからもう一度積み上げることだね。

この世界にいろんな花があるとすると、そのものらしく咲いているということは、その花が必要とされているということです。

みかこ: 最近のあわちゃんをいいなと思うのは、天の意志とつながりだしたから魅力が出てきているんだよね。あわちゃんは今まで、ほかの人に好かれたい。でもみんなが天とつながらないところで連携して全体で外れていくという世界をやっていたんだね。みんなが中心の意志とつながり始め一人一人に柱が立つと、世界に花を咲かせるということになると思う。柱が立った人たち同士で連携していくと、お互い魅力的だなと思うのが当たり前の世界なんだと思う。

いさどん: (ホワイトボードの図参照しながら)

この一個一個が個性でしょ。こういった個性が存在することが自らの位置を理解する客観だよね。この一個のものがどう生きるかということは、そのものの物語なんだけど、一つ一つ全体の関係性の中で役割があるとしたら、全体の物語を紡ぐ役割があるということ。それはこの時代の盤面から離れないと解らない。それが客観背後。直観はこの中心の柱からもおりてくるんだよ。

みかこ:今は世界全体が中心の意志の柱を見失っていて、全体で横にそれていっている状態。ネットワークも悪いネットワークになっている。しかし、このネットワークに中心の想いの柱が立ったら、全体に良い流れになるね。

道理が欠如した世界
道理が欠如した世界

いさどん: というように、客観背後まで捉えても、我々は最も身近に単独の自分というエゴをもらっている。常にそれを主役にしながら、同時にこの大きな世界を意識していく。そしてこの両面を意識していれば、自らの中にいる自分は必ず生かされるものです。

道理の通った世界
道理の通った世界

真学校を受ける中で、確実に大きな変化があった人の一人があわちゃんでした。それがこの振り返りに現れていて、大きな世界観にまでつながったのでしょう。

最近のあわちゃんブログには、地球外生命が登場して、いろいろな鋭いコメントをしています。その名も「あわりーぬ」。是非こちらも見て下さいね。

★あわちゃんブログのアドレス

http://ameblo.jp/awari-nu/entry-12002725233.html

http://blog.livedoor.jp/anumakatak/


防災デーについて

真学校2週間目の最後2月27日に、防災ワークショップが行われました。

人類が際限ない物質的な豊かさや経済成長を追い求めた結果、地球の46億年の歴史の中の、ほんの一瞬にしか過ぎない短期間に、地球環境を変化させ、自然災害が世界のあちらこちらで起こっています。

その災害をどう捉え、どのように防いでいくのかについてのワークショップを行いました。

受講生からは、「こうしたことは考えてもみなかったので、今後意識していくことができる」という感想が多く聞かれました。


ワークショップの最後に、いさどんから「防災について」以下の話がありました。

防災というと、人によっては恐怖をイメージするものですが、地球の歴史から観れば、たとえば生命の大量絶滅は過去に何回もありました。それは古いものを壊し、新しいものを生み出すきっかけになってきました。私たちは、人生を生きていく上で色々な出来事や困難に出会いますが、そういった困難は自分たちの今までの在り方を振り返って、新たな人生に出会うチャンスでもあるのです。ですから、地球規模で私たち生命の存在を捉えれば、それは決して悪いことばかりではないのです。

ただ、人間は今の自分に囚われ、今の状態を維持したいと常に思うわけです。維持したいと思うと、自らにとって恐怖に思う出来事が起きようとすれば、それを避けようと考えるものです。しかし、世界はこれまで一度も止まることがなく、変化・変容・変態を繰り返しています。そして、私たちも常に新しい世界を生きているのです。すべての生命が古い自分を捨て、新しい自分に出会い続けているのです。

そういったことから考えると、防災という考え方は現状を守りたい心で成り立っているとも思えます。しかし、時代は変わり続けていくのですから、何かが壊れていくということは、新たな時代の幕開けにつながるということです。今の世界情勢を観ると、地球上での人間の営みが飽和状態になってきているので、危険信号とも取れる様々な自然災害が起きようとしています。そういった災害は、これからも現実に私たちの身近なこととして起こり続けるのです。

まず、地球温暖化から来る気候の変化は、確実に今後食糧難を引き起こします。人々の考え方や生き方を変えていかないと、それは極めて身近な現実となります。しかし、今考え方を変えても、すでに今までのツケがこれから現象として現れてきますので、ある意味手遅れでもあるのです。

そうすると、それに対して私たちはどのように考えたらいいのでしょうか。
今から全てを変えてそれに対処することはできません。しかし、その必要はありません。つまり、その都度私たちはどのようにしていけばいいのかを考えていけばいいわけですし、そのような対応しかできないのです。

その時に、自分さえよければいいという「我先の心」は、奪い合い殺し合う世界を創ります。本来の日本の大和の精神は「和」の心です。「大和」とは、「大いなる調和」を意味します。その和の心があるからこそ、日本で災害が起きると、人々はつながり助け合うようになり、世界からもそういった精神を非常に評価されています。それとは逆に、海外では災害が起きるとここぞとばかりに奪い合う事件が起こっています。
ですから、大和の精神はこういった時にこそとても重要なものであり、私たちが日本人でいることの意味があると思うのです。これから、地球上で災害が頻発する時代に、そういった心を私たち大和民族は発揮する時が来ていると思います。

それと同時に、人間はこれまで物理的な豊かさを求め過ぎてきたがために、対立の世界を創ってきました。そういった世界が災害によって壊れるということは、新たな世界を創りなさいという人類に対してのメッセージでもあるのですから、広い世界観があればむやみに恐れる必要はないのです。
これまで蓄積されてきた地球上のプラスのエネルギー(破壊のエネルギー)は、いずれ現実に私たちの前に現れてくることでしょう。ただ、その恐怖を煽って、どこかに誘導しようとは思いませんし、そのように考えてもいけません。やはり、一人ひとりがそのメッセージの意味をよく捉えることが大切です。

私たちは一人ひとり生きています。蜜蜂の世界では、一匹の蜂が生きるということは、何万匹の蜂の生命をつないでいくことです。それは私たち人類も同じであり、生きるということは、自分が生きると同時に、人類という生命を次の世代へつないでいくことなのです。そこで自らを主張したところで、46億年という地球の歴史からすると、それはとても微細なことです。

そこで私たちが問われるのは、自分自身が今まで生きてきた結果、次へ何を伝えたのかということです。生きてきた結果、死を迎える時に、充実した人生だったと思うのか、それとも結局自分本位に生きて自らの価値を下げたのかが、問われると思うのです。

これまでの人類の在り方のように、ただ、物理的に生きて、物理的な喜びのもとに存在しているようでは、これから来るであろう困難は恐怖にしかすぎません。しかし、本来生きることはそうではないはずです。物理的なことを超えて、私たちがこの世界を創る一部であり、歴史の一部分を紡ぐ者であることに気付く時がいよいよ来ているのです。
私たちの実態は魂であり、そこに肉体が形成され、その器の中に魂が生きています。肉体は終わっても、魂は残ります。それがまた何かの縁により、この世界に生きるとしたら、今の時代を生きることは自分の未来を創っていることにもなります。

このように世界観を広げていけば、今をどのように生きるのかによって、未来の自分に何を与えるのかが観えてきます。そして、それはこの三次元の世界でも、今をどのように生きるのかが、自分の子供や孫だけではなく、全てのいのちに影響を与えているのです。そのような捉え方をしたら、人間の生き方自体が変わってくるはずです。その時に、私たちは新たな時代を観るのでしょう。今をどのように生きるのかが今、一人ひとりに問われる時代が訪れています。

防災デーにあたり、ただ危険が来るからそれを避けて通るという表面的な狭い視点ではなく、ぜひ広い世界観を持つきっかけにしてもらえればと思います。

そして、それは死生観にもつながります。死は必ず訪れるものなのですから、気持ち良く生きて潔く旅立っていくことができるのです。
ただ災害を防ぐだけが防災ではありません。防災を考えたときに、やはり日々の生き方の姿勢を自らに問い、そして時代と共に問うていくことが大切だと思います。


第20日目:自然療法プログラム

今日の午前は、木の花ファミリーで10年ほど前から行っている「自然療法プログラム」についての講義でした。

自然療法プログラムの原型は、今から30年以上前(いさどんが32歳の時)の人生相談という形で始まった。その頃は何でも相談に乗っていて、カルマ読みをベースにして相談を受けていた。

その初期の頃の話がたまたまfacebook にちなっぴーがあげていたので、それをみんなでシェアした。いさどんおじさんと10代のちなっぴーのほんわかした雰囲気が出ていて講義の合間のアイスブレイクにもなった。 木の花ファミリーfacebook

「ケアはテクニックでなく場の力である。」

「ここにいるだけで心身の改善が進む。」

といさどんが何度も語っていたように、どういった場で暮らすのかが一番心の癒しになる。

コミュニティがいいと言っても、群れは良くない。それは傷口を舐めあう関係になれば逆効果。問題とは一人で向き合わなければならない。周りは健全で、それをサポートするのがいい関係。

相談を受ける中で、お母さんが子どもに対する接し方がわからないということがある。自分が子どもから抜け切れないインナーチャイルドの親もいるということからすると、親子の絆や秩序をつけていき、そこに柱(父性)がないのだから柱を立てていくことが大切である。

自然療法プログラムでは必ず定期的に面談を行うのだが、その時の録音テープを聴くことで、客観的に自分を捉えることができる。それは自分で自分の癖や傾向などに気付いていく為に有効である。

面談の他に主治医のいさどんは、つけてもらった日記を点検してコメントをしているのだが、これらを含めても、このプログラムは一人がテクニックを駆使してできることではなく、周りの環境が必要になる。だから一人を健全にしていく為には社会作りが必要となる。

一方、天然循環法の「食」の講座の中でもいさどんが語ったように、病気の中にも治療してはいけないものもある。病気や問題事は因果応報で、自分にふさわしく与えられているのだから、時と場合によっては、治して楽にすると学ぶチャンスを奪うことになり、当事者の成長を妨げることになる。病気や問題事というのは神様からの贈り物であり、なぜそれを与えられるのかを振り返り、健全になっていく為に起こっているということが腑に落ちれば、その問題事は不必要となり消えていくというのが宇宙の法である。

だから、それを伝えることを生業とすれば、霊的には天の意志に反することになり、人生が終わる時には、それが必ずチェックされる。

けれども浅い意識のところではそのことはいいことになってしまう。いさどんは、初期に神様から伝えられた

「心を語って飯を食うな。」

をずっと固く守り続けている。

この取り組みは、純粋に相手のことを想うことであり、そういう意味からも「治療」ではなく、「世直し」だといさどんは語った。

自らの心の癖を知って自己コントロール(洗心)し、上手に使い分けていくとそれが個性となる。

自分のエゴ(我)に縛られているのに、好きなことをしてそれが叶うことが自由だと思っている。本当は、エゴ(我)を手放していくことで自由になるのにはき違えている。このように物の価値観がひっくり返る転換期が来ている。歪みに執着していると楽にならない。本来全てのものは、もとの響きの健全な状態になろうとしている。それが嫌だといって病気になったり、嘘をついたりして無駄なエネルギーを使っている。物事が自分の思い通りにならないのは本当は有難いことなのだ。

今の時代を見ても、いいと思ってやっていることがおかしな結果になっている。(例えば、昨日テレビで観たネットバンキングの被害では、便利だとうたってお客を獲得してきた銀行が、知らない間に何者かにネットバンキングの銀行口座からお金を引き出されて、そのセキュリティ対策にお金をかけ、そのセキュリティの裏をかいてまた詐欺が行われる)これはしっかりとした柱が立っていないからで、それに気付かせるために起こっている現象とも言える。

このようなことは宇宙真理であって、決して宗教ではない。

今の世の中には舎利弗(釈迦の十大弟子の一人であり、頭が良くて賢いが、それ故に悟りが遅かったと言われる)のような人がたくさんいて、人より優れていると思い、自己主張ばかりで振り返らないので、自分が正しいと思い、人の話を聞かない。それに対して鳩摩羅什という人は、頭は良くなかったが、尊師の言うがままに生きて早く悟りを開いたように、尊師、即ち宇宙の法に則り、いただく精神で、生かされているという謙虚な心で生きていくことで人間は早く目覚めることができる。

腹を決めると柱が立つ。

そして天とともに地を生きて、菩薩の心を持ちながら地上を生きることができる。

みんな平等であり、「(教育、宗教、医療、政治などの)先生」はいらない。一人一人が目覚めて世界に貢献している理想郷を目指していて、それをまず木の花が表現する為に私たちはこの生活をしている。

現実に、治療不可能と医者から見放された多くのケアの人達が、この自然療法プログラムによって治って社会復帰を果たしている。今回の受講生14名のうち、5名がこのケアプログラムの卒業生である。また、メンバーの中にも卒業生がおり、ケアではなくても、行き詰っていた人達がここで健全になり日々を過ごしている。

この講座を受講生以外の現在ケア滞在中のあっこちゃんも受けていた。日に日に明るくなっていくあっこちゃんを見ると嬉しく有難いなぁと思う。そしてこの気持ちは地球の心だと思った。彼女が社会復帰できることを心から願う。

そのことを考えてみても、このような捉え方で日々を生きることは、人類にとって本当に大切な取り組みであると思う。

そういった意味でも、私達はみんな毎日「自然療法プログラム」を受けながら暮らしていると言える。

 

 

 

 


第11日目:己読みに於いて

今日の午前中のフリープログラムでは、昨日に引き続き受講生の地球暦をいさどんが紐解いていきました。プログラムの冒頭で、いさどんは次のように語りました。

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今まで僕は沢山の人たちのカルマや地球暦を観てきましたが、人はとかくそれを自らにとって都合の良いように思いたいものです。しかし、事実は他者からの目です。さらに事実は、生きてきた人生そのものです。そこを紐解くためには、自らの主観から来る思惑で見ていては絶対に観えてきません。ですから、カルマ読みや地球暦の己読みは、自らの主観を手放し、客観と主観を折り合わせながら観ていくことが大切です。そのためにはとても優れたツールです。ただし、こういったものを本当に活かすためには、自らを正しく観る覚悟がいるのです。

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よしてるくんの地球暦を観ると、よしてるくんは直観人間でありながら、それと同時に思考も沢山まわすタイプだということが分析できます。そんなよしてるくんの地球暦を見ながら、あわちゃんはいさどんに、「地球暦では直観の惑星である水星が大事だと以前いさどんが言っていたと思うのですが、それについてもう少し詳しく教えて下さい」と質問しました。それに対し、いさどんは次のように答えました。

いさどんの話に聞き入るよしてるくん
いさどんの話に聞き入るよしてるくん

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直観は、思考をしないで湧いてくるものです。そして直観には2種類あり、自らの内(本質・潜在意識)から湧いてくる直観と天から降りてくる直観があります。カタカムナ的には天から降りてくる直観を受け取り活かしましょうと言いますが、人には内から直観が湧いてくる仕組みもあるのです。「あの人は嫌だ」とか「この人は信用できる」という直観は、自らのカルマが反応している直観ですが、これは正直な心につながります。つまり、直観が働いている人は正直だということです。ですから、どのような時でも直観で受け取ったことを素直に表現すれば、まずは正直者であることになります。

ところが、正直にも種類があるのです。そうすると、正直の種類をチェックできる直観は、天から降りてくるのです。広い世界観から降りてきた直観は、自らの正直の中身を吟味できます。しかし、自己中心的な人によくあるのは、内から湧いてくる直観を「これは直観だからいいのだ」と考えるのです。それは正直ではあるのですが、正直でも自らの癖から生まれたものは振り返らなければいけない場合があるのです。

よしてるくんの場合、直観人間なので良いこと(正しい判断)に気付くのですが、自分がやれていないのに人にはそれを伝える傾向があります。そこで、「あなたは人にはそのようなことを言いますが、自分を観ていますか?」という直観が天から降りてくるようになり、それを受け取ったら、バランスの良い人になれるのです。

僕は人生に行き詰まっている人たちに対して、「はじめは何でもいいですから、自分らしく正直になりましょう」と伝えます。その後にそういった人たちは、「解放されて良かったです!良い出会いでした!」と言うのですが、そのままでいたら単なるわがままな人になってしまいます。そこからどのように自らをコントロールしていくのか、という次の段階があるのです。しかし、現代のプラス型社会の楽になればいいという世界ではそういったことを緻密に吟味していきませんから、それで終わってしまいます。

いずれにしても、「あの人は嫌だ」という想いであっても、正直であれば真実なのです。それをまず正直に出して、まわりの人から「それはあなたの独りよがりだろう」という話になって返ってきたとしても、それは良いことなのです。そこで自らの独りよがりに気付けるのですから。そこで正直を出さないでいると、自らの独りよがりの心をチェックできません。ですから、まずは素直に正直を出すことが大切なのです。それをまわりの環境は手助けしてくれているのです。

そして、心を磨いて広い世界観が身についた時に、自らの内から湧いてくる正直な想いを天から降りてくる直観から自分でチェックできるようになります。それは天と地がつながっている境地です。

ところが、その段階まで至っていない人は、宇宙の法則に基づいて自らの心を正していくためには、まずは勇気を持って正直を出すことが大切です。出すことによって、まわりの皆(全ての環境)もある意味天の存在なのですから、皆からチェックしてもらいながら正すことができるのです。その時に、自らの世界観が狭いと、皆が伝えてくれたことを受け取れません。ですから、広い世界観のもとに、皆の意見も受け入れられる広い素直な心を持つことが大切なのです。そのように主観と客観の整合性を取っていけば、人は無限に成長していくことができるのです。


第9&10日目:「価値とは?~一人ひとりの目覚めの時代~」

「1ヶ月間の真学校」の中で、カタカムナ講座が2日間にわたって行われました。2日目の講座の冒頭で、いさどんは次のように語りました。

いさどん:

私たちの住む地球には多様な生き物が存在します。さらに宇宙に目を向ければ、無限の星が存在し、その中で地球は本当に微細な存在です。先ほど皆で奏上したカタカムナの63首を聞いていたら、「価値」という言葉が浮かんできました。価値はどこにあるのでしょうか。宇宙は星と星の関係性のもとに成り立っていますが、星々は価値については何も考えず、ただ存在するだけで宇宙を形成しています。

では、地球上に無限の生命が存在する中で、その価値はどこにあるのでしょうか。例えば太陽の光は無条件に降り注いでいます。それによって風ができ、水蒸気が上がって雨が降り、大地に植物が芽生え、それが腐食して土ができるというように自然現象は成り立っています。その時に、そこに価値を認識している存在があるかというと、いないのです。動物も植物も微生物も全て、価値というものの上に存在していません。

そこで、価値はどこにあるのだろうかと考えると、人間の思考の中にあります。先日、木の花劇団がここの経済に関する劇を発表しましたが、あの中にはたくさんの価値がありました。劇の中で表現されている価値は何を表しているかというと、今の人間の有り様は変だということを伝えているのです。どうしてこのような価値に人間は縛られているのだろうか、と問いかけているのです。

価値というのは、自分と他者とを分けることから生まれます。それでは、どこから価値が生まれてくるのか、考えてみましょう。

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よしてるくん: 差。

いさどん: その差はどこにありますか?

よしてるくん: 思考かな?

いさどん: 誰の思考ですか?

よしてるくん: その価値を決める人の思考です。

いさどん: その価値を何が生み出しますか?

みどりーぬ: 比較。

いさどん: 誰と誰を比較しますか?

みどりーぬ: 人と自分。

いさどん: それは、自分という自意識の上に価値が決まってくるのです。自我を主張し合わない自然界では、価値を決めなくても、美しい生命ネットワークが形成されています。太陽の光が降り注ぎ、自然の成り立ちが流れていくと、その中で生命は全て循環して一つの輪となり、それぞれが各ポジションを担いながら相互に成り立つ仕組みになっています。それは、私たちの体の仕組みと同じです。そこでは、価値基準のいらない世界です。

そこで、さらに価値について考えると、人間の意識だけがそうした価値を持っているのです。価値を持つということは、人間の自我の表現なのです。では、私たち人間が生きていく中で、価値のある人とはどういう人なのでしょうか。

いぶちゃん: 人の役に立つ人。

みどりーぬ: 困っている人がいたら助ける人。

いさどん:「これこそ価値がある!」というような、究極に価値のある人とはどういった人でしょうか?

みどりーぬ: 闇と光の両極を知っている人。

いさどん: 難しいことを言いますね(みんな、笑)。そのような人のことを何と呼びますか?

やまちゃん: 聖人。

いさどん: そうですね。では、聖人の代表は誰ですか?

やまちゃん: お釈迦様、キリスト。

いさどん: こういった人たちは聖人として生まれてきたのでしょうが、生まれてからすぐに聖人としての生き方をしてきたわけではありません。ある時から聖人の道を歩み出したと思うのですが、それはどのような生き方だと思いますか?

やまちゃん: 真理を教えてきた生き方。

いさどん: 真理とは何ですか?

やまちゃん: 宇宙の法則に則った在り方。

いさどん:僕は宇宙の星と星の関係や地球の生命の在り方を観て、そこに価値をどのように置くかを捉えました。それに対して、人間の中にある価値とは何だろうと思った時に、価値のある人とは尊い人のことを指しています。そこで聖人というところまで皆で行き着いたのですが、聖人とはお釈迦様、キリスト、ムハンマド、孔子など、日本にもそういった人はいたと思うのです。では、そういった人はなぜ聖人なのでしょうか。

たになおちゃん: 傍(ハタ)を楽にするから。

キタジュン: 自分以外の全ての人に対して救いの手を差し伸べる。

いさどん: 簡単に言うと、世の中や人のことを考えて生きたということでしょう。そこで、さらに価値について考えた時に、自然や宇宙の成り立ちを観ると、そういったものは価値を考えることはありません。それは仕組みです。それぞれが与えられたポジションを担いながら、互いに対話して全体を成り立たせています。そこには確かに意志の存在を感じますが、それは与えられた役割を果たしているだけなのです。それは地球生態系を観ても、たとえば微生物は自らのポジションに対し、こういった価値があるから微生物をやりたいとか、次の役割はミミズにしようかと思うことはありません。

僕は、「生きているかどうか研究家」であり、「変だよ!人間」というのが持論ですが、なぜそう考えるのかというと、人間は常に損得を考えて生きているからです。そこには自我という軸があって、他者と比べて損か得かを考えて生きています。ところが、宇宙の天体や地球上の他の生命を観ても、そういった価値観を持って存在しているものは何一つありません。しかし、その中で人間は一人ひとり全て違う価値観を持っています。人間には人間という一つの価値観があればそれでいいと思うのですが、人間は一人ひとりオリジナルな価値観を持って存在しているのです。そうであるがゆえに、この世界の存在を認識するよりも先に自らの存在を認識してしまい、人間はこの世界を認識できなくなっています。自我が強くなればなるほど、認識できる世界は狭くなっていくのです。人間の意識レベルでは、自我があるのが当たり前です。それが人間らしいと勘違いしている人もいるのですが、地球上の他の生命は何一つそのような価値を持っていません。ですから、「自分が」という価値観が小さいと、この世界がより広く観えてきます。そして、「自分が」という価値観がなくなってしまうと、この世界が自分自身にもなってくるのです。

いったい、この人間とは何なのでしょうか。そういった広い世界観を通して観れば、人間として目指すべき尊い方向は、自我の価値観を捨てたところにあるのです。ところが、現代の人々は本来目指すべき方向とは逆のところに自らを置き、それを望むところとして目指しているのです。それで楽に生きているのかというと、実はその世界にいては楽ではありません。

ここにいる皆さんは、真学校で自らを1ヶ月かけてリニューアルし、新たな自分を見出していくという目標があり、1ヶ月もの時間とお金をかけて来ているのです。今の時代に1ヶ月の時間を作ることは大変なことです。それにお金を出してまでやる人は本当に限られた人たちです。今どき、心を見つめて自らをリニューアルしていくことを、1ヶ月の時間とお金をかけてやる人がいるのだろうかと思っていたら、今回14人の申し込みがありました。今後、年に2回開催していく話も出ていますが、それは需要があるからではありません。こうしたプログラムを必要とする時代が来ているからです。

皆さんは、変えることを目的にここに参加していると思いますが、では何を変えるのですか?

たになおちゃん: 自分を変える。

いさどん: 自分にどういったところがあるから、どのように変えようと思うのですか?

たになおちゃん: 自分の性格に問題があったから、自分を変えなければと思います。今まで自己中心すぎて、周りを不幸にしてきました。

いさどん: 自分のことしか考えていないということは、自分が内向きだったということです。それは先ほどの聖人と比べると反対の方向ですね。なぜ自分が内向きだったのでしょうか?自分が内向きだった時には、それが価値のあることだと思っていたから、そうしていたのではないですか?

たになおちゃん: はい、それしかないと思っていました。

いさどん: それは、価値違い(勘違い)です!(チーン♪ みんな、笑)人間の意識が低いところにあると、自らを守ってそれで自分が安定すると思っています。ところが、人間の長い歴史の中で人の営みを捉えてみると、いつの時代でも変わらず、「己を忘れて人のために生きる」ことが価値のあることになっています。しかし、多くの人間は常に自らに囚われ、意識の低いところにいて、それが自らを守ることで安心だと思っているのです。今、なおちゃんが話したように、たいていどの人も意識の低いところにいてはいけないとは思っています。そこに意識があると、行き詰まるようになっているのです。それは、この世界の奥にある見えない法則が、「ここにいてはいけないよ」とそこから抜け出すためのメッセージとして表してくれているのです。

人間社会であろうが、自然界であればなおさら、この世界では自らのことばかりで不調和に生きていたら、問題が発生するようになっています。例えば鳥が、「しばらく天候が悪くなりそうだから、食料を沢山蓄えておかないと」と考えて、田んぼのお米を沢山食べて太ってしまったら、猫が襲ってきてもとっさに飛ぶことはできません。そうしたら食べられてしまいます。そこで、「足るを知る」ことが大切なのです。適度に食べ、適度に排泄し、それが自然に還元されて、次の命につながっていくのです。そこには人間のような欲の考えはありません。「得した」「損した」「良い人生だった」と考えない世界なのです。そうした考えがなければ、生命の循環の中では皆が健康に命を紡いでいくことができます。そして、そのように価値基準を持たないのが、この世界の生命として生きるものの本来の姿です。

人間は自らを主張し、聖人という存在から遠い人間ほど、価値という基準を持っています。そして、それが自分らしいと自らを守ることであり、そこに囚われながらこの世界を創っています。それに対してこの世界の側からは、「それでは生きることが苦しくなりますよ。あなたが命だとしたら、本来の命の姿から外れていますよ」と病気などの問題事を通して教えてくれています。鳥が欲をかいて食べ過ぎていたら、危険が迫った時に逃げ遅れて食べられてしまうように、そういったものは生命として生きていく資格がないことになります。だから自然淘汰されるのです。ところが、現代では人間だけはそういった法から外れたものでありながら、淘汰されずに、人工という世界を創り、他の命に災いをもたらしながら存在しています。今、地球規模で人間は、自然災害や気候変動を通してメッセージをもらっています。しかし、国を司るリーダーたちは、相変わらず経済発展こそを豊かさとして優先しているのです。

命は循環しているのですから、他者の役に立つ働き(傍楽)をしてつないでいくと、この世界は健康になるように創られています。しかし働くのではなく、自分のことばかりを考えて物や金を溜め込もうとすると、血液が全体に行き渡らない病気の状態と同じような社会になってしまいます。今の日本経済は破綻状態にあり、それは借金ばかりが必要な人工透析状態なのです。

そうした政治を司る人々が世の中で成功した優秀な人とされていますが、それは尊い存在とは違います。ですから、今の世の中で成功した人を尊い人とは言えません。こうした社会の矛盾を目の当たりにするたびに、「人間はおかしな生き物だ」と思うのですが、人間はその価値を人間社会の中にのみ見出し、それが人間らしくていいと思い、その意識が自分たちの首を絞めていることに気付いていません。もしかしたら今、私たち人類は絶滅前夜にいるかもしれません。IPCC(国連気候変動による政府間パネル)のデータを見たら、そのようなことを続けている場合ではないのですが、それは私たち一人ひとりの目覚めに関わっていることなのです。

この1ヶ月間の真学校を通して、まずは自らの実体を知り、客観的な視点を養い、健康で楽に生きていけるように、皆さんは参加しているのです。僕は、改めて皆さんがそういったことを意識し学んでもらえるように、こういった話をしています。

あなたがた一人ひとりがこの世界を創っています。それが塵(チリ)も積もって70億人が集まり、地球にこれだけの影響を与えて今、この世界の現状があります。それは、あなたの働きがこの世界の行き詰まりを創っているということです。それは勉強してわかるようなものではなく、直観で感じて矛盾を捉える感性があったら、当たり前にわかることです。自らを観て客観的な視点が育てば、そこで自らの矛盾にも気付きます。そうすると、当たり前に生き方を切り替えることができます。今の人間は物事が良く見えているようで、知識をたくさん得ていても、そういったことが観えていないようです。

こういったことが人々に当たり前に観えるようになり、一人ひとりが世界の仕組みの中で役割をもらい、世界をつなげるためにあることに気付き、その役割を果たしたら、あなたはすでに聖人です。そして、その時に人は、自らが生きようとしなくても生かされる存在になります。命は必要な分だけ与えられていますし、寿命は決まっているのです。ですから、生きながらえようとしなくても良いのです。世界がこの仕組みである限り、自らに与えられたポジションで生きていく役割と期間は決まっているのです。

その中で人間だけは他の生命と少し違って、生きる内容が一人一人の意志に託されています。それが人間としての価値だと思うのです。私たちはどのように生きるのか。その結果、この世界に何をもたらしたのか。自らの価値をどこに置くのか。そこに気付き生きる自由が人間には与えられているのです。与えられている自由はそれだけです。価値基準もそれだけなのです。

 

政治はセイ(政・聖)と書くのですから、本来聖人が行うべきものです。それなのに、主義主張のために政治が行われているのが現状です。その自我の極めつけは、自国の利益を得るための戦争です。その自我が世の中に争いの世界を創り、様々な問題事の原因となっているのに、それが観えないのです。人間とはそのようなおかしな生き物です。

 

そういった中で、皆さん一人一人は自らを転換するために、1ヶ月の時間とお金をかけてここに来ています。世の中の人がなかなかできないことに皆さんは取り組んでいるのですから、僕は特別な人たちだと観ているのですが、自らの転換だけではなく、真の価値とは何かに気付き、この学びから自らの価値をどこに置くのかを考えてもらえたらと思っています。

 

プログラムの冒頭でそういったことを伝えると、「私は自分の学びのために来ているのに、人のための学びなんて嫌だ!」という可能性もあるのです。しかし、プログラムが進んできて、その中でカタカムナの宇宙観に触れるところまで来ると、皆さんもある程度今の社会情勢と宇宙の構造との矛盾について知ることができてきていると思います。そして、その学びでは広い世界観を持ちましょうと伝えてきました。その中で自分はどのような存在なのかを捉え、世界観が広くなれば、自我から離れることのきっかけとなります。そして皆さんはカタカムナの世界観と出会ったことによって、現象界の奥にある世界まで捉えた時に、この世界の存在する仕組みについてさらに理解を深めることができました。

 

宇宙空間に生きる私たちは、当然、宇宙人です。そして、私たちが宇宙人という意識を持つと、そこまでの広く高い認識を持つことができます。地球上で私たちは無数の生命ネットワークの中で存在していますが、宇宙の仕組みを認識できるのは、その中でもたった一種類、私たち人間だけです。

 

昨日のカタカムナ勉強会で「アマハヤミ」の話がありましたが、アマハヤミとは思念の速度であり、光の速度の10の64乗倍と言われています。アマハヤミはこの現象界の光と比べる対象の存在でもあり、量子力学の世界でいう究極の相対性理論のようなものです。宇宙は広大な世界ですが、アマハヤミの思念では人間が頭の中で「宇宙」を思い浮かべるだけで、瞬時にして宇宙全体が観えてくるのです。それだけの能力を人間は潜在的に持っています。カタカムナと出会うまでは、この世界の基軸は光という認識だったので、そういった概念はありませんでした。ですから、宇宙を知るためにこれまで物理学者や科学者たちは、莫大な労力をかけて宇宙を探査してきたのですが、光の速度の乗り物を作れないのに、130億光年もの宇宙の世界を観て帰って来ることは不可能なのです。そういった思考を超えて、宇宙に探査の思念を送ると、意識があるレベルに到達していれば、宇宙の全体像が瞬時に観えてきます。そして、人間の存在とは何なのかを思念として想えば、その存在価値が観えてくるのです。

 

そうしたら、客観的に自らを観て、自分が低い意識レベルにいると気付いたら、こう自らに伝えてあげればいいのです。「あなたは何のためにそのような無駄なエネルギーを使っているのですか。その上、さらに辛い思いまでして、涙を流しています。そんなエネルギーはもったいない。バカバカしいからそんなことはやめましょう。」そういった意識を皆さんに持ってもらえたら、世の中は良くなっていくと思います。

 

皆さんの日記を読んでいると、真学校の学びとはこういうものだと皆さんは少しずつ理解してきているようですが、実はあるところでこれを切って、「今の延長にこれからの学びを提供していくわけではありません。それでは、学びが皆さんの我の延長の学びになってしまいます」と伝えようと目論んでいます(笑)。そして、本来人間とは何なのかという本質を、自らを一気に超えたところで理解してもらえたらと思っています。今、種明かしをしてしまいましたが(笑)。

 

昨日のカタカムナ講座の中では、今まで聞いたこともなかったよくわからない話を聞いたと思いますが、そのわからないことを大事だと思って、それに付き合っていくと、ある時あなたに自我が切り離される時が来るのです。その時に、今まで自我に囚われていたことに気付き、今までのあなたの疑問がわかるようになるのです。

 

そのような自我を超え物事の本質に目覚めるためのプログラムを、私たちはこれからも提供し続けていきます。時代が切り替わる時を迎えているのですから、皆さんにもこの輪を広げていってもらいたいと思います。「自分のために」というところから、本当に世の中を変えていくための役割に目覚めてもらいたいと思っています。
そのために、古代人の叡智であるカタカムナの宇宙物理学は大切なものです。しかし、気を付けなければいけないことは、そこでカタカムナ教になってはいけないと思うのです。癌を治してもらおうなどと、カタカムナの奏上をお願いすると、それはご利益宗教のようになってしまいます。それではいけません。自分自身がそういった意識レベルの人になることが大切です。そして、自らの存在を持って世の中に大事を示していける人になることが大切なのです。誰もがそのような尊い人になれば、次の時代の扉は開かれます。それは一人ひとりの目覚めの時代なのです。それが、これからの人々の目指すべき価値なのです。

 

「尊きものを見つけ、そこに行き、救われることよりも、自らが尊きものとなって、他を救えるようなものになれ。これからは、一人びとりがイエスやブッダであるぞ。」


正直・素直・信じる by いさどん

真学校も第2週目に入りました。

真学校前に1か月間のケア滞在をしていたよしてるくんは、日々緻密に自分の心を見つめて、それを日記にしたためてきました。ある日の子どもミーティングを観察していて、子どもたちが大人に心を開いていることで、堂々とした発言ができるようになると感じたという。

そして、心を開いていくにはどうしたらよいかということを考えたときに、正直・素直・信じることをしたらいいのではないか?と思ったそうだ。

以下、よしてるくんに日記をちょっと抜粋させてもらう。

「ふっと思ったこと。正直・素直・信じるということは、誰に、何をという所が大きく関わってくるという説明がありました。自分で自分の心を見る場合、緻密に見たとしても自分の枠の中で見てしまい、自己完結して本当を捉えきれないかもしれません。正直でありさえすれば、緻密に見ることは必要のないことなのかとも思いました。そういうことを考えていたら、昨日のいさどんのコメントを思い出しました。「求める心。」それがキーワードのような気がしました。求める心があれば、信じて間違いないものに出会うのかなと思いました。そうであれば、先程の私の考えるようなことは考える必要のないことなのかもと思いました。そもそも信じる心があれば、そのようなことは考える必要はないですね。」

いさどんからは、「とても良い投げかけです。みんなで共有するとよい話なので、ミーティングで質問して下さい。」とコメントがありました。

ミーティングで、いさどんがこれについて説明をしてくれました。

「正直・素直・信じる」の正直は、まず自分のありのままを表現することです。正直は一つしかありません。ですから、正直を言うのであればいつも簡単なことです。正直が複雑にある時には「複雑にあります」と言えばいいだけですし、正直がいくつかある場合には「いくつかあって、これとこれとこれです」と言えばいいので、結局正直は一つだけなのです。ところが、ウソをつくとその中身は沢山あるのです。まず一つウソをつくと、それがバレそうになったら次のウソをつき、また次のウソをつく・・・とずっとウソをついて生涯ウソをついていくことになります。その場合は頭をすごく使うことになるので大変です。ウソつきほど頭を沢山使っていますし、詐欺師はある意味大変能力が高い人たちです。その能力をまっとうなことに使えばよっぽど世の中の為にも自分の為にも良いのです。それにひきかえ正直はただありのままを言えばいいのですから、全く頭を使わなくてもいいのです。

そこで、正直を言う時に、もう一つセットで必要なものがあります。それは素直な心がないと、正直は出てこないのです。素直は素に直る。素は元という意味です。その元はどこにあるのかというと、この世界の元です。この世界の元は宇宙原理ということにもなりますが、自分の中にある良心のことでもあるのです。それは自分を創っている一番元の心です。それに直るということが素直ということで、素直に合ったこと、つまり内にある駆け引きや思惑のない言葉を伝えることは、仏様の心を持っていることになります。人は、このような心を表現する人を憎みませんし、攻撃もしません。仮にその人が間違っていても、代わりにまわりの人がかばってくれるのです。こういう人を徳のある人と呼びます。

ところが、普通の人が正直に素直に生きようと思っても、それはなかなかできません。「この人はこういう人だ」と思っても、「そんなことを言ったら、逆に叱られてしまうのではないか、自分が損をするのではないか」と余分なことを考えてしまうのです。そうやって自分の損得を考え、相手の想いを勝手に膨らませて、正直を伝えずウソをつくのです。そうすると、本当に正直になるには勇気がいるのです。勇気がいるということは、やはり信じていなくてはいけません。その信じる時に、ほとんどの人は条件付きで信じようとするのです。「これをしたら自分が良い思いをする」とか、神社に行って「ご利益をもらえるのなら信じる」と思っているのです。しかし、信じるということは、わかったらやるとか、約束をしてくれたらやるということではないのです。わからないけれどやる、というのが信じることなのです。木の花のメンバーも、一体全体自分たちがどこへ向かっていくのかわからなくても、大事だと思うからこれまで歩んできたというのは、信じる心があるからです。つまり、信じることは、素に戻る、常に変わらない自分の大元に自分が直ることです。そうすると、正解がどうなのか、行く先が良いのか悪いのかはわからなくても、ただ正直に素直に生きていくことが、信じる心のベースにあるのです。信じる心ができると、勇気が湧いてきます。そうすると、とてもたくましく生きていくことができます。それは覚悟ができていることでもあるのです。

 そうすると、知意行の元の心である決意ができて、それで人は道が開かれていくのです。カタカムナでは「知意行一体」といって、知は知ること、意は決意すること、そして行は行うことです。その三つが一体でないといけないのです。そうすると、最初に知ることが必要になり、その知る内容によって決意するレベルも変わってきます。そこで、まずは何を知るか、次に知ったことに対してこれは大切なのだから行じていこうと決意し、行いになるのです。そうすると、人は言行一致の人になります。言行一致の人は言ったことを行うのですから、これを正直な人生というのです。言ったことをやらなかったり、思ってもいても出さないというのは不正直であり、知意行一体にならないのです。この知意行全てをマスターした段階に至った人は、ものをグルグルと考えなくても、直観で物事を判断できるのです。ですから、知意行一体の後に初めて直観が湧いてきて、考えるよりも鋭い真理が湧き出してくる人になるのです。

同じように、正直・素直・信じるは三位一体なのです。一つずつではダメなのです。正直と素直と信じるがセットになって初めて意味があるのです。

 


第6日目:自己紹介+日記シェア

(以下、メンバーのみかちゃんが2月20日の大人ミーティング前に行われた真学校受講生の自己紹介と日記のシェアの様子をまとめてくれました)

今日は、真学校受講生の自己紹介プレゼンタイムの前に、昨日の予告通り、木の花楽団で歌を歌った。初めは「星々の会合」、そしてリクエストに応えて、久しぶりに「お帰りなさい」を歌った。お帰りなさいを歌うのは本当に久しぶりのこと。「お帰りなさい、本当のあなたに。」まさに、真学校はそのためにある。

毎日深い心のシェアーがある。

今日の発表は、みえちゃんと由佳理ちゃん。みえちゃんは、穏やかに淡々と心の内を語りほんわかしたいい場を作ってくれた。そして自己紹介の大トリは長期滞在ナンバーワンの「おやじ」由佳理ちゃん。パワーポイントを使っての発表の後、オレンジレンジの「以心電信」の替え歌を歌ってくれた。(替えた歌詞は本ブログ文章の最後に掲載します)

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この替え歌の発表の裏では多くの人が動いていた。友情出演でよしてるくんとあわちゃん。歌を決めたのはよしてるくん(よしてるくんは、以前メンバーのあやちゃんが以心電信を口ずさんでいたのを思い出して提案をしたそうです)、そしてあわちゃんと替え歌の歌詞も作っていた。マイク・カンペ・音源の準備は龍姿郎、歌詞カードを持っていたのはカマちゃんと祐君。歌の詩のパワーポイントを作ったのは文ちゃん。マイクにしゃもじをつけたのはりょうちん。場内から、「それぐらい自分でやれよ」との声も(笑)。まりねーから「じゃあ、自分は何をしたん?」との問いかけに、歌詞の中の一部を「心磨き」に変えただけ。普段控えめに見える由佳理ちゃんが自ら歌うということで、これだけ多くの人を動かしたことにみんなは驚いた。さすが、三文字陽性の横綱級のゆかりちゃん。動いた男性諸君、ご苦労様。

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次に、日記発表があった。昨日ののりちゃんに続き、今日はなおちゃんの日記。涙なみだの発表だった。今までの発表とは違う空気が流れた。自分の心と正面から向き合い、その心の変遷が綴られている日記を読む彼女の姿が、段々美しくなっていくのがわかった。

この半年間なおちゃんを見てきたいさどんから、「ケアーは違うと思い、真学校を進めた。何かがきっかけで本当にかたくなになっていたなおちゃんが、こんな風に変化していって、本当に肩の荷が下りた。今日の日記を見ていて、感謝の気持ちがわいてきた。日記を読んでなおちゃんが涙するたびに、なおちゃんが美しくなっていくんだよね。それはみんなの喜び。最近梅雨時でもないのに、湿っぽくて。こういう湿っぽさは嬉しいよね。」と語った。

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この真学校は、本当に今までのEDEとは違う。心を学ぶということを求めてきた人たちの学びの姿は、ファミリーメンバーにとっても深い学びと癒しになる。一人の変化が連鎖して次の人へと移ってゆく。そして、サポートする側もサポートされる側もなく、ただ場全体が発酵して豊饒な香りを漂わせているような良質の場が創られてゆく。

「船出」とは、ファミリーメンバーだけではない。地球上のあちこちにいて心を学ぼうとしている魂がこの波動をかぎつけて集ってくる。そして同じ船に乗って、大海原へとこぎ出す。

内も外もなく、学びの輪が広がってゆく。そういうことなのかなと思った。

みんなそれぞれに頑固だったと言っている。でもそれは時が来れば、解けるものなのだと、みんなの発表を見ていて思う。長い冬が過ぎて、共に学ぶ仲間と出会って、期が熟して、いよいよ古い服を脱いで、「本当のあなた」に帰ってゆく。その姿は美しい。見ているものの心も洗われてゆく。その約束の場に集って、その場面に立ち会っている。これこそが宝もののような時間。そしてそれを共有出来ることのすばらしさ。これが、金神様が言っている、うれしうれし、楽し楽しの正体なのではないかと思う。

まっちゃんの提案で、「金神様の問答」の最後の部分をひろっちが読んだ。

皆々様、いよいよ金神動きます。さすれば、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、

まことの神代が花開く。皆々笑え、愛し合え。まこと次々現るぞ。

あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。

ひふみよいまわりてめくるむなやこと。艮金神現れる。神人共に現れる。

いよいよ神代の幕開じゃ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

そしてみんなで、てほとへとほへとかけ声かけて踊り出し、笛と太鼓が始まった。この時点で11時。毎晩こんな事をやって、木の花ファミリーの夜はふける。

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ここで、よしてるくんが「ごめんなさい」発言。「みんなのことも、いさどんのことも信じていなかった」と。「ずっと前の龍姿郎君のシェアーの時しんどいといったんですが、いさどんもみんなも言葉をかけてくれたんだけど、全然みんなのことを信じていなくて、一人で抱え込んでいました。そのことをくにさんから伝えられてそうだなと思いました。これからはみんなを信じて素直に受け取って、素直に心を出してみんなを頼ってやっていくのでよろしくお願いします。」とシェアーした。

いさどんからは「ええことやねん。なんでそんなに暗くシェアーするの?みんな階段のように進んでいくんだから。大体僕は人を信じてないし。でもそろそろ信じようかなって、今の話を聞いて思いました。(笑)前から言ってたでしょ。いつどんでん返しが来るか、構えてるって。中身がたいしてないんだから、重くしゃべるなよ。(笑)。」と、温かいコメントが。

10年前には自分の心と向き合えず逃げていったよしてるくん。4年前にも長期滞在している。そして今回、かなりのどん底からケアー滞在を希望して木の花に来た。そして、いさどんとの日記のやり取りの中、短期間で変身してケアーを卒業し、そのまま真学校に参加した。その分析の鋭さから、メンバーにも助言していた。

そんな頼れるよしてるくんが、揺れる心を素直に表現した。みんな、一朝一夕では進まない。揺れながら、行きつ戻りつしながら歩んでゆく。人間は、そのようにして進むもの。いさどんは、そんな人間を、温かい目で観ている。そういう意味では今日言ったことを明日裏切るのが人間。人間のことは信じていない、といさどんは言う。でも、こうして日々心と向き合い、人の心の頑固が解けてゆくのを見るのが、いさどんにとっても、回りで見ている私たちにとても、喜びになり、癒しになる。

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それから今日の特筆すべきは、渉君の確固とした意志を感じる堂々たるファシリテーション。今後もその能力を発揮してねと、みんなから絶賛の声があがった。

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日々、こんな奇跡の心のドラマが綴られる、真学校なのです。

(以下「以心電信」の替え歌)

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